平野城跡
ひらのじょうあと(Hirano Castle Ruins)
【C-ME167】探訪日:2025/2.27
三重県鈴鹿市平野町
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、鎌倉時代に伊東氏が伊豆国伊東からこの地に移り住み、築城したといわれている。のちに伊東氏は神戸氏に仕えた。
1568(永禄11)年、織田信長は3男・信孝を神戸友盛の養子に入れた。その後、友盛に隠居を命じて信孝に強引に家督を継がせると、1571(元亀2)年、平野城主・伊東茂右衛門は、同じく神戸氏の家老である高岡城主・山路弾正とともに主家再興のため謀反を企てた。しかし、企ては失敗に終わり、討ち取られて城も廃城となったという。
城は西から北へと流れる平野川を堀として、鈴鹿川の東岸の段丘上に築かれ、周囲に土塁が設けられていたとされる。現在は、城跡一部に高さ2mほどの土塁が残っているのみで、曲輪跡はソーラーパネルの設置場所となっている。なお、東の佛光寺には伊東茂右衛門の墓がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1571年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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伊東茂右衛門 | F0** | 神戸信孝 | H143 |
インターネットの過去の写真と比べると、土塁も削られ、かなりソーラーパネル域は拡大しているようである。