高野瀬城跡
たかのせじょうあと (Takanose Castle Ruins)
【C-SG039】探訪日:2016/10/16
滋賀県犬上郡豊郷町大字高野瀬640
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、高野瀬隆重によって築かれたとされる。 高野瀬氏は鎌倉時代に愛智四郎家長の嫡男左近将監家広が高野瀬村に住して高野瀬を称したことに始まるとされている。
近江国守護佐々木氏が六角氏と京極氏にわかれて対立すると、高野瀬氏はその狭間となり、当初は六角氏に従って京極氏に対する備えとして六角氏の命により肥田城を築いた。戦国時代にはいると、京極氏は内部抗争により次第に勢力を失墜し、麾下の国人ら領主のなかから浅井亮政が京極氏を凌ぐ勢力を築き上げていく。1525(大永5)年、六角定頼が浅井亮政を江北に攻めたときには、高野瀬氏は朝倉教景を介して浅井氏との調停を申し入れている。1560(永禄3)年、高野瀬秀隆の代には浅井氏に寝返ったことから、六角定頼,義賢父子により肥田城が水攻めに遭う(結果的には堤防が決壊し失敗)。
その後も小谷城の浅井長政と手を結ぶが、浅井氏が織田信長に滅ぼされると、柴田勝家の配下となり、1574(天正2)年、勝家の越前一向一揆鎮圧に従軍した高野瀬秀隆,隆景父子が討死したことで高野瀬氏は滅亡した。廃城時期は不明。
現在は城跡は工場の敷地となっており、遺構は残っていないと思われる。