大草城跡
おおくさじょうあと
(Okusa Castle Ruins)
【C-NN025】 探訪日:2017/9/15
長野県上伊那郡中川村大草字町(大草城址公園)
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年代は定かではないが、南北朝時代に大河原城の支城として築かれたとされる。天竜川の東岸にあり、南側にはその支流が流れる段丘の上に築かれている。現在は大草城址公園として整備されている。中央の小高い所が主郭で、西下に東西に西ノ郭、北の駐車場となった北ノ郭で構成されている。開墾や公園化によって土塁や堀は確認できなくなってしまった。
香坂氏は更科の牧之島城を本拠としていたが、平安時代末期の頃、大河原へ進出した。南北朝時代、香坂高宗は、南朝方であった宗良親王が、井伊氏の井伊谷城から越後,北陸へと転戦し信濃を訪れた1343(興国4)年に大河原城に迎え、30年以上に亘って庇護し続けた。宗良親王は信濃宮と呼ばれるようになり、大河原城が東国における南朝方の中心となった。大草城は、天竜川を挟んで北朝方の船山城(片切氏)や飯島城(飯島氏)の諸族と対峙していた。
宗良親王没後の1390(明徳1)年頃、香坂高宗は本拠を大草城に移した。大草城には元々大草氏が居していたが、血縁関係を結んで次第に同族化したようである。1507(永正4)年生まれの香坂宗縁(大草休斎)は大草と香坂両家の家督を継いでいる。
1582(天正10)年、織田軍に攻められて落城している。その後、信濃に進出した徳川家康は、所領を失った元在地領主を多く採用しているが、そのなかに大草休斎の名もみえる。なお、1591(天正19)年の検地帳では大草城跡は畑として記されており、香坂氏も天正年間に帰農したとされる。