常滑城跡

とこなめじょうあと (Tokoname Castle Ruins)

【C-AC045】探訪日:2014/3/9・2021/6/8

【C-AC045】常滑城跡 愛知県常滑市市場町5丁目13

【MAP】

〔駐車場所〕

【C-AC045】常滑城跡

   1479(文明11)年、緒川城主・水野貞守の孫にあたる水野監物忠綱によって築かれたとされる。忠綱の系統は常滑水野氏と呼ばれ、2代大和守,3代監物守隆と3代続く。守隆は本家の水野信元の娘を妻としたことから、もとは松平氏と結んでいたが織田氏に属することになった。
 1582(天正10)年、守隆は本能寺の変で明智光秀に与したことで常滑城を退き、京都の嵯峨へ隠棲した。その後、織田信雄の家老・星崎城主の岡田重孝の持城となるが、1584(天正12)年に羽柴秀吉に内通した疑いで織田信雄によって殺される(小牧長久手の戦いのきっかけ)。次に天野五右衛門が常滑城に入ったが、刈谷城主の水野忠重の攻撃を受けて落城した。小牧長久手の戦いの功により、高木九郎広正の居城となるが、1590(天正18)年に信雄が秀吉の転封命令に叛いて尾張を追われたことで、常滑城も破却されたと推定される。
 なお、京都嵯峨へ隠棲していた水野守隆は千利休などと茶の湯を悦しんだが、1598(慶長3)年に豊臣秀吉により切腹を命ぜられている。常滑に残されていた妻は剃髪して総心尼となり、1615(元和元)年に総心寺を建立した。
 常滑城は「常滑村古城の図」を見ると東西に伸びた丘陵に六郭が描かれており、東西約136m,南北約20mで四方に二重堀があったという。現在は市街地化され遺構は残されていない。水野氏3代の遺徳を偲んで建立された地蔵堂(正法寺)が高台に建っており、その前にある公園に石碑と案内板が建てられている。天理教常滑分教会入口にも城址碑が立つ。
 なお、初代城主・水野忠綱夫妻の墓は常滑城跡の南東600mほどに建つ天澤院にある。

【史跡規模】

【指 定】常滑市指定史跡(1968年11月1日指定)
【国 宝】
【国重文】

関連時代 室町時代 戦国時代 安土桃山時代 江戸時代:前期
関連年号 1479年

1582年・1584年

1590年 1615年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
水野忠綱 G606 水野守隆 G606 水野信元 G606
岡田重孝 G604 織田信雄 OD05 天野五右衛門 F***
水野忠重 G606 高木広正 G171 総心尼 ****

 

【C-AC045】常滑城跡
 撮り損ねた写真を撮ろうと再度(7年ぶり)に訪れたが、高台へ上ると風景が全く異なっていた。一面に太陽光パネルが設置され、残念ながら曲輪跡の面影はなく城址碑と説明板が残るのみであった。写真ギャラリーには基本的に新しい写真を載せるが、今回は敢えて2014年当時の写真も載せている。 

 

【C-AC045】常滑城跡

【C-AC045】常滑城跡 ※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)

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▲西からの登り口

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▲(2014年3月撮影)

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▲曲輪跡(2014年3月撮影)

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▲曲輪跡(2014年3月撮影)

【C-AC045】常滑城跡

▲(2014年3月撮影)

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▲(2014年3月撮影)

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▲正法寺

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▲西側

【C-AC045】常滑城跡

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▲東側の城址碑

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▲東からの登り口