福釜城跡
ふかまじょうあと (Fukama Castle Ruins)
【C-AC039】探訪日:2011/9/29・2021/5/31
愛知県安城市福釜町蔵前
【MAP】
〔駐車場所〕
永正年間(1504~21年)に松平宗家5代長親の2男である松平親盛によって築城された。
1471(文明3)年、岩津城の松平信光は勢力拡大を図り、安祥城を落城させて3男の松平親忠を入れた。1508(永正5)年に今川方の伊勢宗瑞(後の北条早雲)の軍が松平氏の本拠である岩津城を攻撃した際、安祥松平家2代目の松平長親率いる援軍が今川軍を撃退したことで功名を挙げ、やがて岩津松平家に代わり安祥松平家が惣領の立場になっていく。
長親は兄弟や息子らに安祥城の周囲に藤井城,桜井城,福釜城などを築かせ、さらなる勢力強化を図った。福釜城には2男の松平親盛が配され、福釜松平氏の祖となった。
親盛は甥の松平清康に従って転戦し、武勇については他に及ぶものはないと称えられていたが、宇利城攻略の際に弟の桜井城主・松平信定の救援がなく若くして討死した。2代目の親次も松平清康に仕え、その武勇により「槍三郎次郎」と呼ばれた。3代の松平親俊からは徳川家康に仕え、4代・松平康親のときに家康の関東転封に従い大番頭となって下総,武蔵の両国に領地を与えられた。関ヶ原の戦いののち、所領は旧領三河福釜1千1百石に戻されたが、大名には取り立てられず旗本どまりであった。8代の松平康永が嗣子無く没したため絶家となった。
福釜城は長田川の福釜集落のある台地の南西端付近に築かれていたという。現在は宅地,農地化され遺構は残されていない。