松坂城跡
まつざかじょうあと (Matsuzaka Castle Ruins)
【C-ME014】探訪日:1990/8/25・2020/10/15
三重県松阪市殿町
【MAP】
〔駐車場所〕
1584(天正12)年に近江国日野城の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城したが、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、1588(天正16)年に現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森に新たに築城を開始した。松坂城の築城前より、伊勢国司で北畠家の武将・潮田長助が四五百森城を当地に築城していたとされる。築城は急ピッチで行われ、年内に完成したという。城の縄張りは梯郭式平山城で東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰の本丸には連結式3重5階の天守が築かれ、その南側に二の丸が置かれた。城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。
氏郷は1590(天正18)年には小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。代わって入城した服部一忠は豊臣秀次事件に連座したとして自害。次いで古田重勝が入城し、後を弟・重治が襲封したが、1619(元和5)年に石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となって城代が置かれた。
城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置され、1644(正保元)年に天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。1794(寛政6)年には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。以後、紀州藩領として明治維新を迎え、1871(明治4)年の廃藩置県により廃城となった。
1877(明治10)年の失火により二の丸御殿を焼亡し、1881(明治14)年までに他の建造物も破却によって失われ、城地には石垣のみが残っている。石垣作りには穴太衆が発案した切込みはぎ,算木積みの工法が使われている。また、殿町御城番屋敷に米倉が現存している。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(2011年2月7日指定) |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:中期 | 明治時代 |
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関連年号 | 1588年 | 1590年 | 1619年 | 1794年 | 1871年・1877年・1881年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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蒲生氏郷 | F917 | 潮田長助 | **** | 服部一忠 | H14* |
古田重勝 | FX03 | 古田重治 | FX03 |
現存建物はないが、天守台の野面積み、二の丸周囲の算木積み,打込み接など石垣の見どころは満載である。また、広大な城地のため見逃しがないよう探訪ルートをしっかり描いておくことをお奨めする(実は1回目の探訪では見逃し箇所がたくさんあった)。ちなみに私は、表門跡から登城し、本丸跡下段~本丸跡上段~天守跡~きたい丸跡と廻り、一旦遠見櫓跡横から出て北側の石垣をぐるりと廻り、南の搦手(裏門跡)から再び入城し二の丸跡と隠居丸跡を訪れ、最後に御城番屋敷を見学した。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
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▲表門跡(算木積み)
▲表門跡
▲井戸
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▲助左衛門御門跡
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▲遠見櫓跡
▲遠見櫓跡
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▲本丸(下段)
▲遠見櫓跡方向
▲月見櫓跡
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▲太鼓櫓跡
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▲本丸(上段)へ
▲本丸跡
▲兵部屋敷跡
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▲天守跡(野面積み)
▲天守跡
▲天守跡
▲天守跡から見た本丸
▲敵見櫓跡
▲敵見櫓跡
▲鐘ノ櫓跡
▲藤見櫓跡
▲藤見櫓跡
▲松阪開府の碑(金の間櫓跡)
▲眺望(中央に阿坂城跡)
▲阿坂城跡をズーム
▲きたい丸跡
▲きたい丸跡
▲きたい丸跡
▲きたい丸跡から見た天守跡
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▲隅櫓跡
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▲南の搦手側
▲裏門跡
▲二の丸跡
▲二の丸跡
▲二の丸跡
▲徳川陣屋跡
▲中御門跡
▲中御門跡(本丸下段へつながる)
▲本居宣長旧宅入り口
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▲隠居丸跡
▲隠居丸跡
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▲表門へ
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▲御城番屋敷
▲御城番屋敷 土蔵
▲御城番屋敷 土蔵