松倉城跡
まつくらじょうあと(Matsukura Castle Ruins)
【C-GF060】探訪日:2024/1.14
岐阜県各務原市川島松倉町
【MAP】
〔駐車場所〕説明板前に駐車スペースがある。
1532(天文元)年、越前守護の富樫氏嫡流の富樫頼定が犬山城主・織田信康に仕え、尾張国葉栗郡松倉を領し築城した。頼定は坪内姓を名乗る。1548(天文16)年には織田信秀によって改修強化された。
頼定の曾孫の坪内利定は織田信長に仕え、信長による美濃国稲葉山城攻略のため蜂須賀正勝ら各地の有力者の協力を取り付けに奔走し、木下藤吉郎の手助けによって成功した。また、伝承によれば、1566(永禄9)年、木下藤吉郎が墨俣城を築城する際、木曽山中より木材を流し、松倉にて陸揚げして加工し再び川に流し、墨俣に送ったという。
信長の死後、坪内利定は羽柴秀吉と不和となり、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康側につく。しかし、池田恒興の軍勢に攻められ、やむを得ず松倉城に自ら火を放ち金山城(益田郡金山)に身を隠した。その後、徳川家康に仕え、再び松倉城に入った。
1600(慶長5)年、利定は徳川家康の会津征伐に鉄砲隊を率いて参戦。関ヶ原の戦いでは東軍の井伊直政隊に属し、鉄砲隊を率いて功績を挙げた。この功績により、美濃国羽栗郡,各務郡20村、6,500石を治める大身旗本となり、同年、拠点を松倉城から各務郡新加納の新加納陣屋に移したため、松倉城は廃城となった。
江戸時代にはこの地に樫の大木と祠があり、道標になっていたという(樫大神の碑は河川工事により7,80mほど南に移動している)。明治時代、この樫の枯れた跡に祠を建て直した際、戦国時代の坪内家の墓所も発掘され、新加納の少林寺の墓所に埋葬し直された。
なお、この地は1585(天正13)年に尾張国から美濃国になっている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 | 安土桃山時代 |
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関連年号 | 1532年・1548年・1566年・1584年 | 1600年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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坪内(富樫)頼定 | F836 | 織田信秀 | OD03 | 坪内利定 | F836 |