古宮城跡
ふるみやじょうあと (Furumiya Castle Ruins)
【C-AC169】探訪日:2017/5.28
愛知県新城市作手清岳宮山31
【MAP】
〔駐車場所〕
1571(元亀2)年頃、武田信玄が馬場信春に縄張り設計を命じて築城させたとされる。小幡又兵衛,甘利左右衛門,大熊備前守が在城したという。
この地は作手盆地の中央部であり、南北に縦貫する作手街道が走るなど山間部の交通の要衝といえる位置にある。武田氏が三河の徳川家康攻略の拠点として築城したと考えられている。
1572(元亀3)年にはこの土豪・奥平貞能は武田信玄から本領安堵されていたが、翌年に信玄がなくなると、奥平貞能,貞昌親子は徳川方に内通した。1573(天正元)年、奥平親子が居城の亀山城を退去して滝山城に入ると、古宮城の武田軍が追捕行動を起こす。しかし、その手薄になったところを援軍として駆け付けた徳川軍が攻撃,放火し、古宮城の危機と判断した武田軍は追捕を断念せざるを得なかった(古宮城の戦い)。廃城はこのときなのか、武田軍が大敗した長篠設楽原の戦い後であったのかは定かではない。
現在、城郭跡の南側には白鳥神社が建立されているが、その他の遺構は良好な状態で残されている。城の規模は250m×200mほどで、比高約30mの小さな丘に立地し、当時は周囲は湿地帯となっていた。城郭は大きな堀によって東側と西側に分けられている。作手街道に面した西側より城に侵入すると、幾重にも張り巡らされた細い土塁や堀があり防御性が高い。西本丸から東本丸へは細い一本道となっており東本丸の虎口は桝形の構造をとる。東本丸は5m四方で、その東側に武家屋敷跡と思われる段々状の削平面がある。なお、神社の横を登ると東本丸へと出る。
【史跡規模】 |
【指 定】新城市指定史跡(2018年9月27日指定) 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1571年・1573年・1575年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
武田信玄 | G425 | 馬場信春 | **** | 小幡昌盛 | **** |
甘利信康 | **** | 大熊朝秀 | **** | 徳川家康 | TG01 |
奥平貞能 | KD13 | 奥平貞昌 | KD13 |
馬場信春が智力を尽くして縄張したのであろうが、ほんの3~5年しか使われず、自らも近くの長篠で命を落とすことになろうとは夢にも思わなかったであろう。同じく同時期に彼が築城した諏訪原城跡(静岡県島田市)も訪れたことがあるが、いずれも空堀は圧巻である。
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▲白鳥神社前
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▲白鳥神社
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▲虎口
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▲空堀
▲空堀
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