G330:得川義季 | 得川義季 ― 松平親氏 | MT01:松平親氏 |
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松平親氏 | 松平泰親 |
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親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥と称したとされる。 |
新井白石の『藩翰譜』や『寛政重修諸家譜』などによると、松平親氏の嫡子とし生まれ、異母兄は酒井広親とする系譜が記されている。しかし、泰親は松平氏初代の親氏の叔父か弟ともいわれる。「徳川家譜」によれば、泰親は親氏の弟で父を徳川親季、その子には松平益親・松平久親があり、甥の信光を養子にしたと伝える。また『系図纂要』によれば、益親・久親のほかに松平守久、松平家弘といった子があったという。 |
松平信光 | 松平親忠 |
三河松平氏の第3代当主で岩津松平家の祖。幼名は竹若丸(竹千代とも)。当時の資料では新田氏あるいは賀茂朝臣を称していたことが知られる。祖父は得川有親とされる。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。 |
長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継ぎ、安祥城主となった。しかし、まもなく出家して西忠と号する。彼自身の治績はあまり知られていないが、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。 |
松平長親 | 松平信忠 |
松平氏の第5代当主(弟の超誉の生年が文明元年なので実際の生年は康正元年が有力視されている)。松平親忠の三男。または長忠・忠次とも。 |
文亀3年(1503年)8月頃、父・長親の隠居により家督を継いだと推定されるが、実権はなお父が握っていたともいう。家督継承から程無い永正3年(1506年)7月には今川氏親の三河侵攻が始まり、永正5年には西三河の松平領も攻撃を受けた。岩津松平家の岩津城が伊勢宗瑞の率いる今川の大軍に包囲されていたが、父道閲(長親)の主導の下に安城松平軍は岩津近郊の井田野で決死の戦いを挑み、辛くも今川軍を撃退した(永正三河の乱)。 |
松平清康 | 松平康孝 |
永正8年9月7日(1511年9月28日)生まれ、幼名は竹千代。 |
「三河物語」に、松平信忠が「三男十郎三郎殿に見次の郷を譲せ給う」とあり、また「三河国二葉松」の「三木村古城」および「浅井村古城」に「清康御弟君松平十郎三郎康孝」とあることから、宗家から分出して所領を持っていたと考えられる。 |
松平広忠 | 松平市場姫 |
生母は青木貞景の娘とされているが、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある。 |
徳川家康の異母妹である。松平広忠と田原城主の戸田康光の娘・真喜姫との間にできた子である。 |
松平家元 | 樵臆恵最 |
松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟とされる人物。架空人物説がある。彼の名は「徳川幕府家譜」に記されている。 |
戦国時代の僧侶である。松平広忠の側室の子であり、徳川家康の異母兄弟である。生年月日・時刻は徳川家康のものと同じであり、二人が双子の兄弟であるとの説もある。出家した後、桑谷広忠寺を建立した。兄の死後(関ヶ原の戦いか大坂夏の陣に戦死した説がある)、甥・秀忠に頼まれて兄の影武者を務めた説がある。 |