松平宗家

G330:得川義季  得川義季 ― 松平親氏 MT01:松平親氏

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松平親氏 松平泰親

 親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥と称したとされる。
 徳阿弥は部下の石川孫三郎を従えて三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重の客人となった。松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平三郎親氏と名乗ったという。
 松平郷領主となった親氏は郷敷城を築き、嫡子(兄弟説もある)とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、松平氏の基礎を築いた。
 親氏は武芸に通じ教養があり、信仰と慈悲の心が深かったという。領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの寺社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかった。
 しかし、上述したような親氏の出自と事歴については後世の徳川氏,松平氏の主張によるものに過ぎず、証拠となる史料は無く伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことができず、実在を疑う説もある。
 親氏の生没年はさまざまな諸説があり、定説の段階までには至っていない。
 また、松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、始祖酒井広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。 

 新井白石の『藩翰譜』や『寛政重修諸家譜』などによると、松平親氏の嫡子とし生まれ、異母兄は酒井広親とする系譜が記されている。しかし、泰親は松平氏初代の親氏の叔父か弟ともいわれる。「徳川家譜」によれば、泰親は親氏の弟で父を徳川親季、その子には松平益親・松平久親があり、甥の信光を養子にしたと伝える。また『系図纂要』によれば、益親・久親のほかに松平守久、松平家弘といった子があったという。
 親氏の死後、家督を継承して松平氏を近隣十数か村を領有する有力国人領主に成長させた。松平氏が額田郡岩津を占領し、西三河の平野部に初めて進出したのは泰親(または信光)の時代とされる。
 しかし、上述したような泰親の事歴については後世の徳川氏,松平氏の主張によるものに過ぎず、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことが出来ず、実在を疑われてもいる。

松平信光 松平親忠

 三河松平氏の第3代当主で岩津松平家の祖。幼名は竹若丸(竹千代とも)。当時の資料では新田氏あるいは賀茂朝臣を称していたことが知られる。祖父は得川有親とされる。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。
 実は松平家初代として、系譜の史料で実在が確認できるのは信光からである。信光以前の系譜は確証が乏しいため、松平氏勃興の事項は未検証とするのが実情である。
 信光は三河の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。寛正6年(1465年)5月、三河守護細川成之の要請により、貞親の被官として8代将軍足利義政の命により額田郡国人一揆を鎮定している。
 同じく伊勢氏の被官であり、東三河の有力武将である戸田宗光に娘を嫁がせた他、応仁の乱では東軍に属して安祥城を奪った。戦国時代に入ると安祥に進出して西三河に勢力基盤を築いて戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。滝村万松寺や岩津信光明寺などを建立し、晩年は安祥城で逝去。 

 長享2年(1488年)か長享3年(1489年)頃に、父が死去したために家督を継ぎ、安祥城主となった。しかし、まもなく出家して西忠と号する。彼自身の治績はあまり知られていないが、三男なのに本当に家督を継いだのかどうか、一部では疑問視されている。
 『三河物語』においては、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったといわれている。だが、後にこの系統から松平清康・徳川家康ら松平氏を代表する人物が現れたため、親忠が第4代当主扱いされたと言われている。
 明応10年(1501年)8月10日に71歳で死去。

松平長親 松平信忠

松平氏の第5代当主(弟の超誉の生年が文明元年なので実際の生年は康正元年が有力視されている)。松平親忠の三男。または長忠・忠次とも。
 明応5年(1496年)、父の隠居で家督を継いで安祥城主となる。しかしこの頃、隣国の今川氏親からの攻撃を受けるようになり、長親は苦戦を強いられていた。今川氏親の家臣であった伊勢新九郎長氏(北条早雲)と戦ったこともある。しかし長親は優れた武将で、今川軍の攻撃をよく凌いだ。また、連歌などの教養にも秀でていたと言う。長親は三河国の国人領主であった松平氏を戦国大名として飛躍させるための基礎を築いた人物であると考えられている。
 『三河物語』等の記述によると、大軍で東三河を制した戦国大名今川氏親は西三河に進攻、長親は籠城策を採らず野戦を選択。みずから手勢を率いて安祥を出陣。駿・遠と東三河の勢を合わせて1万余という大軍に対し長親は500余の手勢で迎撃を試みた。松平勢の決死の戦いぶりに今川方は戦意の低い東三河勢がまず破られた。その後も長親は新手を撃ち破り、最後は今川軍の大将の伊勢新九郎長氏(北条早雲)の旗本勢までうち崩した。日没後も松平勢はよく持ちこたえ、その夜は矢作川を前に宿陣した。今川軍は思わぬ苦戦の結果、渥美半島の田原城から戸田氏にその背後を衝かれることを恐れて、翌朝には東三河の今橋城を経て本国へ撤退した。この勝利で長親の武名は大いに上がり松平党における求心力を増した(なおこの戦いは永正5年(1508年)説もある)。
 同年、長親は長男の松平信忠に家督を譲って隠居した。もっとも、その後も嫡子信忠・嫡孫松平清康の後見人として今川軍と戦っている。
 晩年は福釜・桜・東条・藤井と新たに分家を輩出させた息子たちの中で、とりわけ桜井の信定を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ松平広忠(長親の曾孫)が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。このために家臣団の失望を買ったという。
 後には広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男に自分や清康と同じ「竹千代」と命名するように命じている。後の徳川家康である。
 1544年(天文13年)8月22日死去。享年72。 

 文亀3年(1503年)8月頃、父・長親の隠居により家督を継いだと推定されるが、実権はなお父が握っていたともいう。家督継承から程無い永正3年(1506年)7月には今川氏親の三河侵攻が始まり、永正5年には西三河の松平領も攻撃を受けた。岩津松平家の岩津城が伊勢宗瑞の率いる今川の大軍に包囲されていたが、父道閲(長親)の主導の下に安城松平軍は岩津近郊の井田野で決死の戦いを挑み、辛くも今川軍を撃退した(永正三河の乱)。
 しかし、この今川軍との戦いにも信忠の確かな戦功や軍事的采配の記録は見えず、大久保忠教の『三河物語』では信忠を不器用者(統率者としての器量の無い者)としている。『三河物語』は宗家の「家憲」として当主の具備すべき「武勇・情愛・慈悲」のいずれも信忠には備わっていなかったと指摘し、暗愚で強情な人物とされた。このため、家中衆も民・百姓も怖れおののき、松平一門衆や小侍までもが信忠を慕わず、城に出仕しない者まで多く現れた。また謀反の動きもあったとされ、これは信忠自身が事前に察知して首謀者を手討ちにしたが、この情況を挽回するには至らなかった。
 結局、大永3年(1523年)には一門等が協議の上で信忠の隠居と嫡子清康への家督譲渡の方針が決まり、家老の酒井忠尚(将監)が代表して信忠にその意を伝えると、信忠はこれを受け容れ息子の清康に家督を譲って、三河国幡豆郡大浜郷に34歳にして隠居・出家した。その後は長命した父・道閲とともに、まだ若い清康を弼けたとも言われている。
 享禄4年7月に隠居先の大浜郷で父に先立ち死去した。 

松平清康 松平康孝

 永正8年9月7日(1511年9月28日)生まれ、幼名は竹千代。
 大永6年(1526年)(または大永4年)、山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し現在地の新岡崎城に移転。足助城の鈴木重政を攻めてこれを降伏させる。このころ世良田次郎三郎と称したという。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行うことにもつながっているという。
 清康は更に、東西に軍を進めて三河国統一を目指し勢力を広げる。享禄2年(1529年)、尾島城を攻め獲る。享禄3年(1530年)には尾張にも出兵し岩崎郷・品野郷を奪う。東三河進出では牧野氏の今橋城(後の吉田城)を攻め落とした。清康は更に渥美郡田原に進軍。戸田氏は戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・設楽郡の山家三方衆の菅沼氏一族と奥平氏、宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出た。ただ、東三河八名郡の宇利城の熊谷氏だけが服属を拒んだためこれを包囲し、11月4日(11月23日)に攻め落とした。ここに三河国統一を成し遂げている。ただし、宇利城攻めの際、桜井松平家の信定が福釜松平家の左京亮親盛を救援しなかったとし、信定を罵倒したことで不仲を悪化させたとも言われる。
 三河統一の勢いに乗った清康は、1万余りの大軍で尾張に進軍。天文4年(1535年)12月、清康は尾張に侵入し織田信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣中の12月5日(12月29日)、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部弥七郎正豊に斬られ即死した(森山崩れ)。このとき弥七郎が使ったのが千子村正と伝えられる。享年25。
 後に広忠も村正を持つ家臣によって殺害される説があるなど、村正の刀は徳川家に災いをもたらした不吉な刀「妖刀村正」と呼ばれ、徳川家は村正を忌避するようになる。 

 「三河物語」に、松平信忠が「三男十郎三郎殿に見次の郷を譲せ給う」とあり、また「三河国二葉松」の「三木村古城」および「浅井村古城」に「清康御弟君松平十郎三郎康孝」とあることから、宗家から分出して所領を持っていたと考えられる。
 また「松平記」は松平広忠の岡崎還住に際し、大久保新八が清康の弟「十郎三郎」に相談したと記し「三家考」は康孝が兄・信孝と共に帰還後の広忠を後見したとしている。
 「三家考」は天文5年(1536年)2月、織田信秀が8,000余りの兵を率いて三河に侵入したと記す。「松平記」にこの戦いの記述があり「松平十郎三郎」の名が松平方の大将として現われる。「三家考」は「清康の舎弟松平蔵人 同弟十郎三郎康孝」と明記して、この兄弟が800人の兵を率い「伊田の郷」に布陣して戦ったとしている。 

松平広忠 松平市場姫

 生母は青木貞景の娘とされているが、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある。
 天文4年(1535年)の清康の死去により、松平信定は岡崎押領をたくらんだ。同6年には所領を悉く押領して譜代の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。
 このため阿部大蔵は天文8年(1539年)吉良持広を頼んで伊勢国・神戸にわたり、広忠をここに幽閉する。広忠は1月11日元服し、持広の一字をとって二郎三郎広忠と改めた。同年、帰国を今川義元に頼むが、9月に持広が死去、子の吉時は転じて織田氏へ加担する。大蔵は広忠に供して三河へ赴き、長篠領民を頼んで暫く蟄居、大蔵は駿河に赴いて義元を頼み、広忠は遠州掛塚に止宿、ここから駿河に渡って翌9年秋まで滞在する。
 天文9年(1540年)義元の計らいで三河牟呂城に移される。譜代衆は広忠の帰城を企て、同11年5月31日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎へ帰城、6月8日に信定は降参した。
 天文14年(1545年)岩松八弥による傷害事件が起こったが、同年「安城畷」において織田氏と合戦し勝利を得る。同16年9月、渡理川原で信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破る。同年、織田信秀による三河進攻が伝えられると今川氏へ加勢を乞い、このため竹千代を人質として送ることとなった。
 天文17年(1548年)3月19日、小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には松平権兵衛重弘兄弟の山中城を落とした。同月、三州冑山にて信孝と対陣。菅生川原で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり竹千代を人質として駿府に送った。
 天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去した。 

 徳川家康の異母妹である。松平広忠と田原城主の戸田康光の娘・真喜姫との間にできた子である。
 松平広忠は於大の方とは別れた後、真喜姫と再婚して市場姫が誕生することになる。松平広忠には6人の子がいたが、正室の子は家康と市場姫だけである。あとの子は側室の子である。
 松平広忠が亡くなると家康は岡崎城を継ぐことになる。この頃の三河地方は一向一揆で荒れていた。その一揆を収めようとして妹の市場姫を八ツ面城主の荒川義広の所へ嫁がせる。荒川義広は家康の家臣として行動するが、途中で親戚関係のために一向一揆方に荷担し、家康に刃向かうことになってしまう。それを怒った家康は荒川義広を八ツ面城から追い出す。義広は家康の追跡を恐れて全国を逃げ惑うことになる。どこに逃げたかは、はっきり分かっていない。しかし、1567年に入没し、菩提所である不退院で葬儀を営んでいる。また、市場姫は家康の実の妹であることからお咎めなしで、後に家康は市場姫を筒井家に嫁がせている。1593年に入没し、やはり不退院で葬儀をしている。荒川義広と市場姫の墓はともに不退院にある。 

松平家元 樵臆恵最

 松平広忠の庶子で、徳川家康の異母弟とされる人物。架空人物説がある。彼の名は「徳川幕府家譜」に記されている。
 天文17年11月に広忠の「下戚腹」の子として生まれたが、翌年広忠が卒去したために、事情を申しのべる機会がなく年月を経た。岡崎在城時の家康に対し、その生母が、広忠から与えられた脇差を証拠として差し出して、広忠の子である旨を訴えた。家康はこれを認めて家臣とした。
 しかし多病であり、人前難成く一生蟄居し、慶長8年8月14日に56歳で卒去した。 

 戦国時代の僧侶である。松平広忠の側室の子であり、徳川家康の異母兄弟である。生年月日・時刻は徳川家康のものと同じであり、二人が双子の兄弟であるとの説もある。出家した後、桑谷広忠寺を建立した。兄の死後(関ヶ原の戦いか大坂夏の陣に戦死した説がある)、甥・秀忠に頼まれて兄の影武者を務めた説がある。