藤井松平

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平利長 MT36:松平利長

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松平利長 松平信一

 三河国碧海藤井を領し、藤井城を築城して自らの居城とし藤井松平家を興した。
 天文9年(1540年)三河安祥城が織田信秀軍に攻撃された。これを聞いた利長は広忠の命により混成軍を率いて安祥城に急行し、織田軍を撃退することに成功した。しかし、この時に城主・松平長家が戦死している(安城合戦)。
 永禄3年(1560年)5月、尾張丸根城攻めで戦死した(ただし書状等で永禄3年以降の生存が確認されていて、戦死が誤りと言う説もある)。山形県上山市の月岡神社は利長,信一父子を祀るために明治10年(1877年)に建てられたとされる。

 

 早くから徳川家康に仕え、永禄元年(1558年)の尾張国の北東部に在った品野城への夜襲戦に加わる。ここで織田方の竹村,磯田,戸崎,滝山などの将士を含む50余名を討ち取り、三河・尾張両国にその名を轟かせた。永禄6年(1563年)の三河一向一揆鎮圧戦でも活躍。このときの働きを家康から激賞されている。永禄11年(1568年)からは織田信長の援軍の将として派遣され、9月12日の観音寺城の戦いに代表される対六角氏戦で、箕作城攻めにて本丸一番乗りを果たす戦功を挙げ、信長からも激賞された。
 天正18年(1590年)、三河軍団の関東国替えに際し、下総布川に5000石を与えられる。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは江戸崎にて佐竹義宣の動向に備えた。その戦功により戦後、常陸国土浦藩の初代藩主となり、3万5000石の所領を与えられた。慶長9年(1604年)、桜井松平家から松平信吉を養子に迎えて家督を譲った。寛永元年(1624年)、封地の丹波篠山城内で死去。

松平信吉

 実父は桜井松平家の当主ではあるが、その実兄である先代・忠正が没し、その遺児松平家広(生母は信吉と同じ多劫姫であるため、異父兄にもあたる)が成人するまでの中継ぎであり、その父も天正10年(1582年)には死亡している。更に母もその後、保科正直と再婚しているため、不遇な少年時代を過ごした。ところが、同じ松平氏一族の藤井松平家の松平信一が子供に恵まれなかったために、主君・徳川家康の甥にあたる信吉が養子に迎えられることになった。
 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、養父・信一は結城秀康の越前移封に伴ってその支城であった土浦城4万石に封じられ、続いて翌年には江戸崎藩の蘆名盛重が実家の佐竹氏に連座して出羽角館城に移されたために、信吉は養父の名代として江戸崎藩の事後処理にあたった。慶長8年(1603年)には安房守に叙任される。この年に養父が隠居して翌年に家督相続が認められて土浦藩主となる。
 土浦城を改築して水戸街道を城下に引き入れるなど領内整備を行いながら、並行して2度の大坂の役にも嫡男・忠国とともに出陣している。元和3年8月(1617年)の高崎城への転封、続いて元和5年(1619年)10月の篠山城への転封など度重なる転封によって元々病弱であった信吉は体調を崩し、篠山移封の翌年に京都の藩邸にて病死した。享年41。墓所は京都千本称念寺。