MT36:松平利長 | 松平親氏 ― 松平利長 ― 松平信通 | MT37:松平信通 | ● |
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松平信通 | 松平長恒 |
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延宝4年(1676年)9月24日、老中の松平信之の次男として生まれる。父の死後、本家の家督は長兄の松平忠之が継いだが、このとき父の所領9万石から1万石を分与されて、大和興留藩主となった。しかし、元禄6年(1693年)に兄の忠之が発狂したとして改易されたため、兄の身柄を預かって、なおかつ幕命により松平本家の家督を相続することとなった。そして2万石加増の3万石で備中庭瀬藩に加増移封となった。元禄7年(1694年)12月28日、従五位下・中務少輔に叙位・任官される。 |
享保7年(1722年)、父の死去により家督を継ぐが、生来から病弱で藩政を執れなかったため、享保17年(1732年)12月12日に藤井松平の支族・松平伊賀守家から貰い受けた養嗣子・信将に家督を譲って隠居し、安永8年(1779年)3月20日に死去した。享年64。墓所は山形県上山市の浄光寺。病弱なのに、次の藩主である信将より18年も長生きしているという不可解なところがある。しかも正室を迎えていないため、異説として長恒は享保13年(1728年)10月4日に病死し、その後は家臣団によって長恒の影武者が立てられていたとも言われている。 |
松平信将 | 松平信安 |
享保2年(1717年)、信濃国上田藩主で藤井松平家支流・松平忠昭の4男・忠隆の子として上田で誕生した。享保17年(1732年)8月9日、藤井松平家の宗家に当たる上山藩2代藩主・松平長恒の養嗣子になると、初名の直隆から信将に改名した。同年12月12日(1733年)に長恒が隠居したため、家督を継いだ。12月28日に従五位下・安房守に叙位・任官される。 |
慶応4年(1868年)の戊辰戦争で兄の信庸が奥羽越列藩同盟に参加して新政府と対立したため、戦後に新政府から強制隠居処分となった。代わって、信安が兄の養子として後を継ぐこととなったのである。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により上山藩知事となり、8月24日に従五位に叙任する。しかし幼少のため、実際の政務は兄の信庸が行っていたと言われている。 |