藤井松平

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松平信通 松平長恒

 延宝4年(1676年)9月24日、老中の松平信之の次男として生まれる。父の死後、本家の家督は長兄の松平忠之が継いだが、このとき父の所領9万石から1万石を分与されて、大和興留藩主となった。しかし、元禄6年(1693年)に兄の忠之が発狂したとして改易されたため、兄の身柄を預かって、なおかつ幕命により松平本家の家督を相続することとなった。そして2万石加増の3万石で備中庭瀬藩に加増移封となった。元禄7年(1694年)12月28日、従五位下・中務少輔に叙位・任官される。
 元禄10年(1697年)9月15日、出羽上山藩に移封される。しかし、上山城修築,大坂城番,和田倉門番,駿府城加番などの諸役で藩財政が困窮したため、家臣のリストラを行なっている。宝永4年(1707年)2月23日、山城守に遷任し、正徳4年(1714年)9月に大隅守に遷任する。正徳5年(1715年)4月には越中守に遷任した。
 享保7年(1722年)、大坂加番に任じられて大坂に赴いていたが、まもなく病に倒れ、9月22日(異説として9月20日)に死去した。享年47。後を次男の長恒が継いだ。

 享保7年(1722年)、父の死去により家督を継ぐが、生来から病弱で藩政を執れなかったため、享保17年(1732年)12月12日に藤井松平の支族・松平伊賀守家から貰い受けた養嗣子・信将に家督を譲って隠居し、安永8年(1779年)3月20日に死去した。享年64。墓所は山形県上山市の浄光寺。病弱なのに、次の藩主である信将より18年も長生きしているという不可解なところがある。しかも正室を迎えていないため、異説として長恒は享保13年(1728年)10月4日に病死し、その後は家臣団によって長恒の影武者が立てられていたとも言われている。
松平信将 松平信安

 享保2年(1717年)、信濃国上田藩主で藤井松平家支流・松平忠昭の4男・忠隆の子として上田で誕生した。享保17年(1732年)8月9日、藤井松平家の宗家に当たる上山藩2代藩主・松平長恒の養嗣子になると、初名の直隆から信将に改名した。同年12月12日(1733年)に長恒が隠居したため、家督を継いだ。12月28日に従五位下・安房守に叙位・任官される。
 外桜田門番,大坂加番など諸役を歴任したが、そのために藩財政が窮乏し、延享元年(1744年)や延享2年(1745年)の凶作で米価高騰が起こり、延享4年(1747年)5月には百姓一揆,打ちこわしが発生して百姓側の年貢減免要求などを受け入れることとなった。宝暦7年(1757年)には洪水による被害で、幕府より3000両を借用している。
 宝暦11年(1761年)に5度目の大坂加番に任じられて大坂に赴いたが、間もなく発病して大坂で死去した。享年45。跡を長男の信亨が継いだ。

 慶応4年(1868年)の戊辰戦争で兄の信庸が奥羽越列藩同盟に参加して新政府と対立したため、戦後に新政府から強制隠居処分となった。代わって、信安が兄の養子として後を継ぐこととなったのである。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により上山藩知事となり、8月24日に従五位に叙任する。しかし幼少のため、実際の政務は兄の信庸が行っていたと言われている。
 慶應義塾に学び、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免官されて東京へ移る。その後、1884年(明治17年)7月8日、子爵に授爵され、1899年(明治32年)8月には芝大神宮の社司に就任するが、華族の模範に反する放蕩な生活を送り続けて散財したことが祟り、1908年(明治41年)10月19日に子爵の爵位返上に追い込まれ、藤井松平家嫡流上山藩主家は華族の座から転落した。
大正7年(1918年)10月23日、兄の後を追うように死去した。享年55。墓所:東京都港区高輪の清凉山松光寺。。