MT36:松平利長 | 松平親氏 ― 松平利長 ― 松平忠晴 | MT38:松平忠晴 |
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松平忠晴 | 松平忠周 |
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慶長3年(1598年)、下総国布川にて生まれる。徳川秀忠から一字をもらって忠晴と名乗った。元和5年(1619年)に常陸国で土浦藩3万5000石の内から2000石を父・松平信吉から分知される。寛永10年(1633年)、家光将軍の頃、書院番士を皮切りに奏者番など務めあげた。その働き振りを評価され、安房国に2000石,下総国に1000石を与えられた。土浦の知行も保持していたため、総石5千石である。そして寛永19年(1642年)8月には駿河田中藩において2万5000石の大名となった。 |
万治4年(1661年)4月19日、松平忠晴の庶出の3男として誕生し、聡明さを父から愛されたと伝わる。異母兄の2代藩主・忠昭とは歳が離れていた上に、忠昭は相続時に嗣子がおらず、よって忠晴の命により、忠昭の相続時にその養嗣子と定められた。天和3年(1683年)に忠昭が死去した際、兄の晩年に産まれた遺児・石松(忠隆)の相続を推す家臣もいたが、亡父・忠晴の遺命通りに家督を継いだ。 |
松平忠隆 | 松平忠容 |
天和2年(1682年)、江戸藩邸にて生まれたものの、家臣間の争いで、叔父にして義兄に当たる忠周への対抗に祭り上げられる。 |
享保13年(1728年)6月15日、上田藩主を継いだ兄の忠愛は、父の遺領から5000石を弟の忠容(当時7歳)に分知した。このとき分知されたのが更級郡にあった飛地・川中島領1万石のうちの5000石で、塩崎村,今井村,上氷鉋村,および中氷鉋村の一部である。知行地は「塩崎知行所」と呼ばれる。現地任用の代官・割番などが政務にあたった。 |
松平忠明 | |
豊後岡藩主・中川久貞の4男として生まれる。天明3年(1783年)9月10日[、忠明(当時の名は中川大炊久長)を5000石の大身旗本・松平忠常の婿養子にする申請が認められる。松平忠常の家は、上田藩主家(藤井松平家)の分家で、信濃国更級郡塩崎村に陣屋を構えていた。天明4年(1784年)2月29日、正式に松平忠常の養子となり、名を忠明に改める。 |