藤井松平

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松平忠愛 松平忠固

 元禄14年(1701年)9月13日、信濃上田藩初代藩主・松平忠周の3男として生まれる。享保13年(1728年)、父の死去により家督を継いで第2代藩主となり、名も忠殷から忠愛と改めた。このとき、父の遺言で弟の松平忠容に川中島5000石を分与したため、上田藩は5万3000石となった。
 しかし父と違って暗愚だった上、享保15年(1730年)には上田城大火や藩主居館が全焼し、寛保2年(1742年)には水害を被るなどの災害を受けて、江戸幕府から5000石を借り受けて救済に務めた。ところが藩財政再建のため、元文5年(1740年)に検見法から定免法に税制を改正して重税を取り立てたり、茶屋遊びに溺れて藩政を顧みなかったりしている。
 寛延2年(1749年)8月2日、家督を長男の松平忠順に譲って隠居し、大内記忠弘と改名する。宝暦8年(1758年)3月6日、江戸で死去。享年58。
 正室の本多氏は、どうやら入嫁前に亡くなったようで、そのため忠愛は生涯、継室を迎えなかったという。ただし、側室は15人。27人の子女を儲けたという。その内、長男・忠順は家督を継ぎ、次男・忠方は早世。3男・信敏は藤井松平家本家から分家した旗本5000石家を継ぎ、4男,5男は夭逝した。6男・忠成は藤井姓を称し、7男・信交は兄・信敏の養子となって旗本5000石家を継いだ。他家に嫁いだ娘は8人いる。

 文化9年(1812年)7月11日、播磨姫路藩主・酒井忠実の次男として江戸で生まれる。文政12年(1829年)9月、上田藩の第5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830年)4月20日に忠学が隠居したのを受けて第6代藩主となり、寺社奉行,大坂城代を経て、嘉永元年(1848年)、老中に抜擢される。嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊マシュー・ペリー提督が浦賀に来航し、国書を交付し開国を迫った際、老中首座・阿部正弘は諸大名や朝廷に意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与としたが、忠優はこれにもっとも反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというものである。事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩が幕政に容喙することにより余計に混乱を極めた。また元々御三家は幕政に参与する資格は無く、まして狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。譜代大名筆頭の姫路藩出身者らしい主張である。
忠優の考えは幕府内で主流だった穏便・開国派であり、攘夷を唱える斉昭の主張は一見威勢はいいが、現在幕府がアメリカと一戦交えても勝利できるはずはなく、下手をすると国土の一部を割譲されるだけであり、それならばいっそ国書を受け取り、早めに開国すべきであるという主張である。
 しかし、水戸学の思想に固まる斉昭と忠優では見解の一致があろうはずがなく、逆に斉昭は忠優、歩調を合わせる老中の松平乗全の免職を阿部に要求した。阿部はやむなく8月4日、忠優,乗全を免職し帝鑑間詰に戻した。しかし阿部は幕府内で完全に孤立を深め、間もなく同年10月には開国派の巨頭・堀田正睦を老中首座に起用し、更に正弘死後の安政4年(1857年)には堀田によって忠固(忠優より改名)は、勝手掛も兼ねる次席格で再び幕閣に迎えられている。
 2度目の就任再任後、忠固は日米修好通商条約締結につき、勅許不要論を唱え、一刻も早い締結を主張し、要勅許を唱える外野の斉昭や松平慶永と対立した。また、慶永や尾張の徳川慶勝が将軍継嗣問題で一橋慶喜を押して雄藩連合でこの難局に対処すべしと主張したのに対して、忠固は紀州藩主徳川慶福を将軍とし、従前どおり譜代大名中心で幕政を進めるべしと考えていた。堀田が日米修好条約の勅許を頂きに京都に留守中、忠固は堀田に見切りをつけ、近江彦根藩主・井伊直弼を大老にする工作を行った。一説によると、一橋派に寝返った堀田を井伊直弼に逐わせ、直弼を傀儡にしてみずからが老中首座として佐幕路線を突っ走る目論見があったといわれる。しかし、直弼は大老としてすでに将軍家定から全幅の信任を受けており、忠固などいつでも逐える体制を整えていたのは彼によって予想外のことであった。
 条約は無事締結されたが忠固は安政5年(1858年)、堀田とともに老中を免職、蟄居を命じられた。勅許を得ず条約を締結し、かつ、朝廷に対して条約締結を事後報告で済ませたのは不遜の極みとして責任を取らされたともいわれ、あるいは、閣内で直弼と権力を争うに至り、機先を制した直弼が異分子を排除したともいわれる。
 安政6年(1859年)9月14日に急死。享年48。後を3男の忠礼が継いだ。墓所は天徳寺、のち改葬され多磨霊園。
 人物聡明で思考も現実的な政治家であったが、斉昭が水戸学に固執したのと同様、譜代酒井家出身という名門意識の思考から抜け切れなかった憾みがある。

松平忠礼 松平忠厚

 安政6年(1859年)に父が急死したため、家督を相続して第7代藩主となった。しかし若年の相続のため、藩内抗争が激化する。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、明治新政府側に恭順して北越戦争に出兵し、戦功により翌年に賞典禄3000石を下賜された。明治2年(1869年)6月、版籍奉還を経て上田藩知事となる。しかし8月15日には百姓一揆(巳年騒動)が起こるなど、なおも藩内は混乱した。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免職される。
 明治5年(1872年)から弟の松平忠厚と共にアメリカに留学した。明治12年(1879年)に日本に帰国し、明治13年(1880年)から外務省御用掛・外務省取調局に勤務する。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。
 明治23年(1890年)の第1次帝国議会で貴族院議員に選出されるも、忠礼は辞退している。明治28年(1895年)3月14日に死去。享年46。
 弟の土井忠直の次男・松平忠正を養子に迎えて跡を継がせた。

 旗本松平家(上田藩の飛び地、塩崎知行所5000石)を継ぎ更級郡塩崎村の領主となったが、築地のキリスト教会に通い、洗礼を受け、親の決めた妻と一児を塩崎村に残し、明治5年(1872年)から異母兄の松平忠礼とともにアメリカに私費留学。ニュージャージー州のラトガース大学付属グラマースクールで英語を学んだのち、1875年にラトガース大学に入学し工学を専攻する。同大学には当時、勝海舟や岩倉具視の子息ら20人ほどの日本人学生が在籍していた。1874年にハーバード大学に移り、1879年に卒業したとする資料もある。
 1879年にニューヨークの建設会社ニューヨーク・ローン・インプルーブメント社に入社後、ウースター大学でも建築と土木を学ぶ。同年、ラトガース大学前で本屋を営んでいた陸軍元大将アーチボルト・サンプソン(Archibald Sampson)の娘、カリー(当時19歳)と結婚し、マンハッタン高架鉄道会社に土木技師として就職する。日本に残していた妻とは離婚したが、「殿様が毛唐女とできてしまった」と地元で騒ぎになったため、松平家からは勘当となった。
 在職中にブルックリン橋の一部を設計担当する。このころ三角法を使った計算法を考案したことからアメリカの土木業界で一躍有名になり、大陸横断鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道の主任測量士として招かれ、ワイオミング州,アイダホ州,モンタナ州,ネブラスカ州各州の鉄道敷設事業に関わる。1884年にはペンシルベニア州ブラッドフォードの公式エンジニア (civil engineer) に任命され、アメリカにおける日本人初の公職者となる。測量に関する英語論文も多数発表し、「ニューヨーク・タイムズ」紙や「デトロイト・ポスト・トリビューン」紙などで、「日本人はアメリカ人に勝る」と紹介された。
 結核を患い、その療養も兼ねて、1886年にコロラド州に移り、鉄道測量技師として働く。忠厚らの招きでコロラド州には多数の日本人が鉄道労働者として移民し、2000年のコロラド州の統計では日系の血を引く住人が州内に約19000人いるとされる。これは人種差別から白人労働者が日本人の下で働くことを嫌い、ボイコットしたことも一因である。
 1888年(明治21年)1月24日、コロラド州デンバーにて死去した。享年37。1952年、コロラド州初の正式な日本人市民としてデンバー市内のリバーサイド墓地に記念碑が建てられた。忠厚の長男・太郎は日本人初の米国軍騎兵隊員、2男・欽次郎(キンジロー・マツダイラ)は日系人初の市長(メリーランド州エドモンストン)になった。1988年にキンジローの子孫のベティ・マツダイラ・リードが上田を訪問、1994年に天皇・皇后夫妻が米国が訪問した折には、孫のハル・マツダイラ・デントと接見した。忠厚の子孫には他にゲリー・デント,スティーブン松平がいる。

松平欽次郎

 ペンシルベニア州出身。父の松平忠厚は藤井松平家の出で、信州上田藩第6代藩主たる松平忠固の次男であり、アメリカ合衆国で鉄道技師として生涯を送った。忠厚と2番目の妻であるアメリカ人女性との間に2男として誕生し、忠厚の幼名と同じ欽次郎と名付けられた。
 1912年に温度式火災検知器を発明し、アメリカ合衆国特許を申請し、アメリカ合衆国特許商標庁の承認が1914年9月29日に行われた。
 1927年、キンジローはエドモンストン市長選挙で当選し、日系アメリカ人政治家として初めての首長となった。1943年にも市長に再選され、エドモンストンの町を苦しめていた洪水対策の対応に当たった。
 1963年に逝去し(78歳没)、メリーランド州ブレントウッドの墓地にて永眠している。