MT38:松平忠晴 | 松平親氏 ― 松平利長 ― 松平忠晴 ― 松平忠愛 | MT39:松平忠愛 | ● |
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松平忠愛 | 松平忠固 |
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元禄14年(1701年)9月13日、信濃上田藩初代藩主・松平忠周の3男として生まれる。享保13年(1728年)、父の死去により家督を継いで第2代藩主となり、名も忠殷から忠愛と改めた。このとき、父の遺言で弟の松平忠容に川中島5000石を分与したため、上田藩は5万3000石となった。 |
文化9年(1812年)7月11日、播磨姫路藩主・酒井忠実の次男として江戸で生まれる。文政12年(1829年)9月、上田藩の第5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830年)4月20日に忠学が隠居したのを受けて第6代藩主となり、寺社奉行,大坂城代を経て、嘉永元年(1848年)、老中に抜擢される。嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊マシュー・ペリー提督が浦賀に来航し、国書を交付し開国を迫った際、老中首座・阿部正弘は諸大名や朝廷に意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与としたが、忠優はこれにもっとも反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというものである。事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩が幕政に容喙することにより余計に混乱を極めた。また元々御三家は幕政に参与する資格は無く、まして狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。譜代大名筆頭の姫路藩出身者らしい主張である。 |
松平忠礼 | 松平忠厚 |
安政6年(1859年)に父が急死したため、家督を相続して第7代藩主となった。しかし若年の相続のため、藩内抗争が激化する。 |
旗本松平家(上田藩の飛び地、塩崎知行所5000石)を継ぎ更級郡塩崎村の領主となったが、築地のキリスト教会に通い、洗礼を受け、親の決めた妻と一児を塩崎村に残し、明治5年(1872年)から異母兄の松平忠礼とともにアメリカに私費留学。ニュージャージー州のラトガース大学付属グラマースクールで英語を学んだのち、1875年にラトガース大学に入学し工学を専攻する。同大学には当時、勝海舟や岩倉具視の子息ら20人ほどの日本人学生が在籍していた。1874年にハーバード大学に移り、1879年に卒業したとする資料もある。 |
松平欽次郎 | |
ペンシルベニア州出身。父の松平忠厚は藤井松平家の出で、信州上田藩第6代藩主たる松平忠固の次男であり、アメリカ合衆国で鉄道技師として生涯を送った。忠厚と2番目の妻であるアメリカ人女性との間に2男として誕生し、忠厚の幼名と同じ欽次郎と名付けられた。 |