形原松平家

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松平與嗣 松平家広 松平家忠

 従五位下佐渡守に叙任され、三河国宝飯郡形原郷に住居して750貫を領した。永正年間(1504-21年)の12月21日に死去した。墓所は同県蒲郡市西浦町の光忠寺にある。
 父・信光の軍門に降った三河国岡崎城主の西郷頼嗣の娘を妻とするなど縁戚関係にあり、弟である大草家(大草松平家)の祖である光重の末裔は、與嗣を祖とする形原家との絆が深く、與嗣の没後、菩提寺として光忠寺を建てられたと伝わる。

 於大の方の姉、於丈の方(於上の方)を妻とする。於丈の方との間に松平家忠をもうける。
 父親忠は松平清康に従っていたが、清康の殺害(1535年の守山崩れ)後の織田信秀の安祥城攻め(1540年)や小豆坂の戦い(1542年)の際の動向は明らかでない。妻の実家である水野氏が、今川氏から離反し織田氏に接近すると、主君の広忠と同様に妻を離縁する。
 桶狭間の戦いを経て、永禄5年(1562年)織田氏・松平氏の和睦の後に今川氏と敵対することとなった。同年に家督を継ぎ、薩摩守となる。
 墓所は愛知県蒲郡市西浦町北馬場の光忠寺。

 主家の松平氏と同様今川氏に従属し、家忠の弟の左近が竹千代と共に人質になり今川方に送られていたが、1560年に今川義元が桶狭間の戦いで討ち死し今川氏が弱体化すると、主家の松平元康と共に形原松平家は今川氏より離反した際に、左近は処刑されている。後に家忠が成人し当主となると、家康に従い、一向一揆と戦い、また、今川方の吉田城攻めにおいては奮戦し勝利し左近の仇である小原鎮実を破った。後に駿河を追われ掛川城に逃れた今川氏真を家康が攻略した際には、氏真を北条氏の領地である伊豆国へ護送する任を果たした。1575年の長篠の戦いにも参戦し活躍する。1582年に形原において死去。

 

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