久松松平

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平康俊 MT42:松平康俊

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松平康俊 松平勝政

 徳川家康の異父弟に当たる。名は勝俊とも呼ばれる。永禄6年(1563年)、家康の命により今川氏真の人質として駿河国に赴く。同11年武田信玄の侵攻を受けて今度は甲斐国に送られた。元亀元年(1570年)冬、家康の手配で甲斐から逃れたが、このため両足の指を凍傷で失ってしまったという。
 天正11年(1583年)に駿河国の久能城を与えられたが、同14年に亡くなった。享年35。墓所は静岡県浜松市広沢の西来院。法名は澄清と伝えられている。その死後、娘婿として水野忠分の子・松平勝政が迎えられている。

 天正元年(1573年)、水野忠分の5男として生まれる。天正14年(1586年)、松平康俊が男子が無いまま没した際、康俊の生母・於大の方の要請を受けて康俊の娘婿となり、家督を継承する。
 文禄元年(1592年)2月、1500石を賜る。同年、文禄の役に際し名護屋城に赴いた徳川家康に同行。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも供奉した。慶長7年(1602年)10月、1000石を加増される。翌慶長8年(1603年)3月、従五位下豊前守に叙任された。
 慶長19年(1614年)から翌20年(1615年)の大坂の役にも参戦し、家康から鳥毛鞘の槍一対と床机を賜った。元和2年(1616年)8月、2500石を加増される。元和5年(1619年)8月に大番頭、寛永10年(1633年)2月9日に駿府城番に任命され、更に3000石を加増されて駿河国有渡郡,安倍郡において8000石を領有することとなった。
寛永12年(1635年)6月10日、駿府において63歳で死去。家督は子の松平勝義が継いだ。

松平勝義 松平勝以

 寛永9年(1632年)12月6日に従五位下因幡守に叙任される。寛永12年(1635年)、父が亡くなったため11月9日に家督を継承し、旗本寄合席に列した。この際、8000石の領地を駿河国から上総国武射郡,下総国香取郡に移封され、多古を居所とした。
 承応2年(1653年)9月27日、大番頭に任命される。寛文5年(1665年)1月2日、大坂城の守衛を担当していた際、落雷があり天守閣が炎上した。その最中、勝義は水野正盛と共に危険を顧みず天守閣に登り、扇の馬印と下知状を外に避難させた。このことは幕府にも伝わり、目付の稲生正倫を通じて感謝の意が伝えられた。
 寛文10年(1670年)11月17日、守衛中に69歳で死去。家督は次男の勝忠が継いだ。

 兄の勝忠(勝易)に子がなかったため、寛文2年(1662年)に養子となる。寛文9年(1669年)8月19日、9歳で徳川家綱に拝謁。延宝8年(1680年)、兄の死去により家督を継いで9000石の旗本となる。
 貞享元年(1684年)11月、上総国佐貫藩主・松平重治が改易されたため、佐貫城受け取りに赴き、その守備を務めた。貞享4年(1687年)1月25日に4代将軍・徳川綱吉の小姓となるが、約1か月後の2月23日には職を辞している。元禄6年(1693年)7月1日に豊前守に遷任。元禄8年(1695年)2月18日に定火消役に任じられた。元禄10年(1697年)2月28日に小姓組番頭に昇進。元禄12年(1699年)2月15日に書院番頭に任じられる。元禄14年(1701年)7月には、御小姓組番頭在任中に組下の者に関わる事務手続きの遺漏を理由として1か月ほどの拝謁停止処分を受けている。
 宝永4年(1707年)7月13日、将軍世子の徳川家宣の次男・家千代の傅役を命じられたが、家千代が9月に早世したため、綱吉の側衆に任じられた。同年12月25日、西の丸(徳川家宣)の御側となり、家宣の将軍就任により本丸に移った。
 正徳3年(1713年)8月3日、大坂定番に任じられ、同時に摂津国島上郡・島下郡で3000石を加増された。これにより1万2000石を領する大名となり、多古藩が成立した。
 享保2年(1717年)3月8日、祖先である松平康俊夫人が徳川家康から拝領した「龗蛇頭」(龍の頭骨という宝物)を徳川吉宗の上覧に供している。同年9月12日、領知朱印状を交付される。享保7年(1722年)には大小の鉄炮30挺を拝領。享保9年(1724年)11月には先に類焼した大坂の邸宅の再建費用として1000両が下賜された。
 享保10年(1725年)3月21日、病気を理由として辞職が認められる。同年4月11日より菊間広縁の伺候となり、以後これが多古松平家の伺候席となった。8月7日には摂津国にあった知行地が下野国河内郡,都賀郡に移された。
 享保13年(1728年)2月14日に死去。享年68。江戸・下谷の白泉寺(明治時代に巣鴨に移転)に葬られ、以後代々の藩主の墓(勝権,勝慈を除く)が白泉寺にある。

松平勝尹 松平勝権

 正徳3年(1713年)、多古松平家分家で300石取りの旗本松平勝久(宇右衛門)の長男として誕生。享保6年(1721年)10月15日、9歳で将軍徳川吉宗に御目見。享保12年(1727年)2月2日、家督を継ぐ。小普請組に属し、福島左兵衛の支配下であった。
 享保14年(1729年)11月23日、本家の多古藩2代藩主・松平勝房の養子となり、12月1日に徳川吉宗に拝謁。享保21年(1736年)4月6日の養父の隠居で家督を継ぎ、元文元年12月16日(西暦1737年1月)に従五位下・玄蕃頭に叙位・任官する。
 元文2年(1737年)に日光祭礼奉行を務め、元文4年(1739年),寛保2年(1742年)には日光祭礼奉行代を勤めた。延享元年(1744年)11月6日に大蔵少輔に遷任する。延享2年(1745年)2月9日に大番頭となり、延享4年(1747年)5月2日に病のため辞職。寛延2年(1749年)3月1日、はじめて領地多古に入る半年間の暇を得る。寛延4年(1751年)2月5日に豊前守に遷任する。
 明和4年(1767年)1月28日、多古藩飛地領・下野国都賀郡西見野村の長光寺境内で崖崩れがあり、万里小路藤房ゆかりの品と思しき銅鏡(柄鏡)、銅製の観音立像・銅塔や古銭が発見されるという出来事があったという。このことは明和5年(1768年)1月29日付で領主松平豊前守(勝尹)から老中松平右近将監(武元)宛に報告がなされ、2月3日に出土品が老中列席の場に提出された。
 明和5年(1768年)3月26日に死去した。享年56。

 文化4年(1807年)5月26日、近江彦根藩の第14代藩主・井伊直中の九男として生まれる。多胡藩の第5代藩主・松平勝升の婿養子となり、文政元年(1818年)に勝升が死去したため、家督を継いで第6代藩主となり、11月16日に従五位下・相模守に叙位・任官する。
 天保元年(1830年)に江戸小石川藩邸に藩校を創設し、藩士子弟の教育化に専念した。嘉永元年(1848年)10月7日、病気を理由に家督を長男の勝行に譲って隠居する。慶応4年(1868年)閏4月23日に死去。享年62。

久松勝行

 嘉永元年(1848年)10月7日、父の隠居で家督を継いで第7代藩主となり、12月16日に従五位下・豊後守に叙位・任官する。ところが嘉永2年(1849年)7月、江戸幕府より預かっていた罪人の神代徳次郎に脱走されるという醜態を犯した。神代は8月に京都で捕縛されたが、この失態により江戸町奉行・遠山景元によって12月19日に閉門処分に処され、家臣団も処罰の対象となった。さらに領地替の名目で領地を替えられて、実高において2000石の減封となった。嘉永3年(1850年)5月22日に閉門処分を解かれている。
 安政2年(1855年)2月2日に大坂加番に任じられ、文久2年(1862年)閏8月19日に二条城定番に任じられる。幕末期は九十九里直忠組の反乱鎮圧で功を挙げ、元治元年(1864年)7月21日に大蔵少輔に遷任する。慶応3年(1867年)4月に日光祭礼奉行に任じられた。
 戊辰戦争時の慶応4年(1868年)2月、徳川氏との訣別を示すために姓を松平から久松に改めた。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で多胡藩知事に任じられるが、直後の8月に死去した。享年38。跡を長男の勝慈が継いだ。