MT01:松平親氏 | 松平親氏 ― 松平康俊 | MT42:松平康俊 | ● |
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松平康俊 | 松平勝政 |
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徳川家康の異父弟に当たる。名は勝俊とも呼ばれる。永禄6年(1563年)、家康の命により今川氏真の人質として駿河国に赴く。同11年武田信玄の侵攻を受けて今度は甲斐国に送られた。元亀元年(1570年)冬、家康の手配で甲斐から逃れたが、このため両足の指を凍傷で失ってしまったという。 |
天正元年(1573年)、水野忠分の5男として生まれる。天正14年(1586年)、松平康俊が男子が無いまま没した際、康俊の生母・於大の方の要請を受けて康俊の娘婿となり、家督を継承する。 |
松平勝義 | 松平勝以 |
寛永9年(1632年)12月6日に従五位下因幡守に叙任される。寛永12年(1635年)、父が亡くなったため11月9日に家督を継承し、旗本寄合席に列した。この際、8000石の領地を駿河国から上総国武射郡,下総国香取郡に移封され、多古を居所とした。 |
兄の勝忠(勝易)に子がなかったため、寛文2年(1662年)に養子となる。寛文9年(1669年)8月19日、9歳で徳川家綱に拝謁。延宝8年(1680年)、兄の死去により家督を継いで9000石の旗本となる。 |
松平勝尹 | 松平勝権 |
正徳3年(1713年)、多古松平家分家で300石取りの旗本松平勝久(宇右衛門)の長男として誕生。享保6年(1721年)10月15日、9歳で将軍徳川吉宗に御目見。享保12年(1727年)2月2日、家督を継ぐ。小普請組に属し、福島左兵衛の支配下であった。 |
文化4年(1807年)5月26日、近江彦根藩の第14代藩主・井伊直中の九男として生まれる。多胡藩の第5代藩主・松平勝升の婿養子となり、文政元年(1818年)に勝升が死去したため、家督を継いで第6代藩主となり、11月16日に従五位下・相模守に叙位・任官する。 |
久松勝行 | |
嘉永元年(1848年)10月7日、父の隠居で家督を継いで第7代藩主となり、12月16日に従五位下・豊後守に叙位・任官する。ところが嘉永2年(1849年)7月、江戸幕府より預かっていた罪人の神代徳次郎に脱走されるという醜態を犯した。神代は8月に京都で捕縛されたが、この失態により江戸町奉行・遠山景元によって12月19日に閉門処分に処され、家臣団も処罰の対象となった。さらに領地替の名目で領地を替えられて、実高において2000石の減封となった。嘉永3年(1850年)5月22日に閉門処分を解かれている。 |