三河国額田郡井田を拠点とし、安祥城の松平氏の譜代家臣であった。 国学院大学の平野明夫によれば、当時は酒井左衛門尉は宗家当主松平清康に属したとされ、これとは別に幡豆郡大浜に隠居した前当主松平信忠に属した家臣グループ(酒井与四郎母・榊原孫十郎など)があったとする。 また、三河大樹寺寄進状によれば、享禄4年10月15日(1531年11月23日)付で田地十二貫目を寄進し、酒井藤七郎忠勝と署名している。また、同年12月(1532年1月)にも同大樹寺文書に藤七郎長勝と見え、同一人物とみられる。大樹寺寄進の事実からも宗家の安祥松平家に仕えたと推測される。
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松平氏の家臣で三河上野城主である。通称は将監。酒井康忠の子で、酒井忠次の叔父にあたるといわれているが、関係などは諸説あって定かではない。松平広忠の時代から松平氏に仕えた重臣であり、広忠没後は松平元康(徳川家康)に仕えて重臣として松平家の文書に署名をしているが、今川義元からは元康と別の扱いにされるほどの勢力を持ち、自立性も有していた。 永禄6年(1563年)になって元康に対して挙兵し、6月には出陣した元康に対して上野城に籠城している。通説では三河一向一揆に与したとされているが、忠尚の挙兵の方が一向一揆よりも早く、一揆側と連絡を取っていた形跡は認められない(一向一揆が岡崎城に迫っていた同年12月の段階でも忠尚は籠城を続けて反撃に出た形跡が見受けられない)。翌年春に元康と一向一揆が和議を結んだ後も抵抗を続けており、『松平記』によればその没落は永禄7年9月6日のこととされる。その後、忠尚は上野城から逃亡して駿河に逃れたといわれ、その後の行方は不明である。
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大永7年(1527年)、酒井忠親の次男として三河額田郡井田城に生まれる。竹千代が今川義元への人質として駿府に赴く時、最高齢者(23歳)として同行した。弘治年間の初期頃より福谷城に住んでいる。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝家を敗走させている。 永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、三河一向一揆では家康に従った。永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる(西三河は石川家成)。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、朝倉軍に突入して火蓋を切った。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、戦後に信長から「背に目を持つごとし」と賞賛された。 天正10年(1582年)に起きた本能寺の変の直後、岡崎に戻った家康が明智光秀を討とうとした際には先陣を務めたという。家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る。忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗する。 また天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させるなど、家康の主な戦いには全て参加している。 天正13年(1585年)に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされ、天正14年(1586年)10月24日に家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。 天正16年(1588年)、家次に家督を譲って隠居する。隠居の要因は加齢もさることながら、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。 慶長元年(1596年)10月28日、京都桜井屋敷で死去した。享年70。墓所は知恩院の塔頭・先求院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。
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三河国坂井郷出身。主君家康の初陣に付き従い、その働きを感嘆している。家康が人質として駿府に送られた際には、行動を共にして駿府に行っている。永禄4年(1561年)に三河西尾城を攻め、落城後に城主となった。 天正4年(1576年)6月6日、56歳で病死。墓地は愛知県岡崎市の龍海院。なお、兵庫県姫路市の姫路神社は、姫路藩主の祖である正親を祭神としている。
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