<神皇系氏族>天孫系

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酒井家次 酒井直次

  母は徳川家康の叔母碓井姫であり、家次は家康の従弟にあたる。幼少より家康の家臣として仕え、天正16年(1588年)、父・忠次の隠居に伴って家督を継いだ。天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に移封された家康からは下総国臼井に3万7,000石を与えられている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って中山道を行軍したため、本戦には間に合わず、参加していない。慶長9年(1604年)に上野国高崎5万石に移封されている。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大坂城の東側の黒門口を持ち場として戦ったが、大坂城の堅い守りに阻まれてはかばかしい武功を挙げることはできなかった。大坂夏の陣では激戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて、天王寺口第三陣の大将を任されている。しかし、豊臣軍の猛攻により、天王寺口の味方は散々に崩され、家次も敗走している。これに関連したのか戦後に家康より譴責があったが、閏6月に許されている。
 元和2年(1616年)に越後高田藩10万石に移封された。その2年後の元和4年(1618年)に死去した。

 元和6年(1620年)6月19日に叙任する。元和8年(1622年)9月、兄・忠勝が出羽庄内藩主となったため、1万2,000石を分与されて庄内藩の支藩である左沢藩を立藩した。 ほどなく漆川(月布川)と小漆川にはさまれた河岸段丘に小漆川城を築き、利便性の悪かった左沢楯山城より移った。
 寛永7年(1630年)3月10日(もしくは1631年)に死去した。子は娘しかいなかったため、左沢藩は一代限りで改易となり、小漆川城も破却された。左沢藩は幕府に収公され、庄内藩の預地となった。

酒井重喬 酒井了恒

 了次は、宗家のお家騒動酒井長門守一件で、実兄で藩主の忠勝の怒りを買い、領内黒川村に幽閉されて没した。
その嫡男の第2代・忠崇は宗家の扶持を受け、その子の第3代重盈は、父の死後、弟の重秋と江戸から庄内に下向し、宗家の家臣となった。重盈の長男・忠盈は、旗本酒井忠雄の家督を相続したため、次男・重栄が第4代となるも早世し、3代・重盈の甥・重喬がその跡を相続して、第5代となった。

 戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた。東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、庄内藩は会津藩,仙台藩,米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった。庄内軍は当初、白河方面を救援する予定で準備を進めていたが、久保田藩や新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなった。この時、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げた庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒であった。
 数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、数に劣る庄内藩は最新兵器と巧みな戦術で反撃した。新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走したという。新庄攻略後、久保田藩領内に北進し幾多の戦闘を繰り返し、横手城を陥落させ、角間川の戦いで大勝を挙げると、わずか2か月足らずで久保田城の目前にまで進軍した。
 久保田城攻略の準備を進めている最中、同盟軍の米沢藩,仙台藩が降伏し、庄内藩領内にも敵が出没するという情勢を受け、庄内藩の部隊は一斉に撤退を開始した。これを知った新政府軍は秋田方面の兵力を増強し追撃に回ったが、了恒の見事な采配により一進一退の攻防を繰り返しながら退却を進め、庄内藩兵はほとんど犠牲者を出さずに撤退を完了させた。

酒井調良 酒井久井
 新品種「平核無」(「庄内柿」)の栽培に成功し、庄内で初めて、リンゴの栽培と豚の飼育を始めた人物として知られている。

 婦人運動家、庄内婦人会会長。1870年、夫の白井重垂が死去。朝暘学校裁縫教師となり、1888年に庄内婦人会を設立。代表幹事に就いた。
 1897年、鶴岡高等女学校(現:山形県立鶴岡北高等学校)の開校にあたって教員として迎えられる。
 1902年、庄内婦人会会長に就任。1906年5月には布施豊世(加藤精三の叔母)の提唱で、庄内婦人会立鶴岡幼稚園を設立した。同園は、1910年に鶴岡の豪商・風間氏からの援助によって、私立荘内婦人会幼稚園(現:鶴岡幼稚園)となる。
 1912年9月10日、死去。享年63。鶴岡の総穏寺に埋葬される。

酒井駒太郎 酒井直恭
 園芸家。庄内柿の生みの親である父酒井調良の後を受けて、庄内柿の栽培と苗木の育成に従事し、果樹園芸の諸研究に没頭する。また、全国各地の大学等で柿を主とする園芸指導を行い、自身で育成した庄内柿の苗木を各地に頒布し庄内柿の普及に努めた。柿の名産地として知られる和歌山県や山形県内陸部、新潟県佐渡郡羽茂町等の柿の木は、すべて駒太郎とその嗣子酒井駿次の出荷した苗木が成長したものである。

 酒井直隆(叔父)は酒井忠勝6男の忠直の養子となり酒井奥之助家第2代を継いだが、子の嫡男・直通が早世し、次男の直豫が出羽松山藩2代藩主・酒井忠予の養子として迎えられたため、酒井奥之助家の家督は、直隆の実弟・重一の長男直恭が相続した。
 酒井奥之助家は、了次の子孫の酒井吉之允(玄蕃)家と並んで「両敬家」と呼ばれ藩内で重きを成した。
 1732年、家禄1000石で直隆の家督を継ぐ。庄内藩亀ヶ崎城代,中老となり、1758年、庄内藩の家老となる。