SK01:酒井忠明 | 酒井忠明 ― 酒井家次 | SK02:酒井家次 |
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酒井家次 | 酒井直次 |
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母は徳川家康の叔母碓井姫であり、家次は家康の従弟にあたる。幼少より家康の家臣として仕え、天正16年(1588年)、父・忠次の隠居に伴って家督を継いだ。天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に移封された家康からは下総国臼井に3万7,000石を与えられている。 |
元和6年(1620年)6月19日に叙任する。元和8年(1622年)9月、兄・忠勝が出羽庄内藩主となったため、1万2,000石を分与されて庄内藩の支藩である左沢藩を立藩した。 ほどなく漆川(月布川)と小漆川にはさまれた河岸段丘に小漆川城を築き、利便性の悪かった左沢楯山城より移った。 |
酒井重喬 | 酒井了恒 |
了次は、宗家のお家騒動酒井長門守一件で、実兄で藩主の忠勝の怒りを買い、領内黒川村に幽閉されて没した。 |
戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた。東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、庄内藩は会津藩,仙台藩,米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった。庄内軍は当初、白河方面を救援する予定で準備を進めていたが、久保田藩や新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなった。この時、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げた庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒であった。 |
酒井調良 | 酒井久井 |
新品種「平核無」(「庄内柿」)の栽培に成功し、庄内で初めて、リンゴの栽培と豚の飼育を始めた人物として知られている。 |
婦人運動家、庄内婦人会会長。1870年、夫の白井重垂が死去。朝暘学校裁縫教師となり、1888年に庄内婦人会を設立。代表幹事に就いた。 |
酒井駒太郎 | 酒井直恭 |
園芸家。庄内柿の生みの親である父酒井調良の後を受けて、庄内柿の栽培と苗木の育成に従事し、果樹園芸の諸研究に没頭する。また、全国各地の大学等で柿を主とする園芸指導を行い、自身で育成した庄内柿の苗木を各地に頒布し庄内柿の普及に努めた。柿の名産地として知られる和歌山県や山形県内陸部、新潟県佐渡郡羽茂町等の柿の木は、すべて駒太郎とその嗣子酒井駿次の出荷した苗木が成長したものである。 |
酒井直隆(叔父)は酒井忠勝6男の忠直の養子となり酒井奥之助家第2代を継いだが、子の嫡男・直通が早世し、次男の直豫が出羽松山藩2代藩主・酒井忠予の養子として迎えられたため、酒井奥之助家の家督は、直隆の実弟・重一の長男直恭が相続した。 |