<神皇系氏族>天孫系

SK02:酒井家次  酒井忠明 ― 酒井家次 ― 酒井忠勝 SK03:酒井忠勝

リンク SK04
酒井忠勝 酒井忠当

 元服の際は徳川秀忠より偏諱を拝領し、忠勝と名乗った。慶長14年(1609年)1月23日、宮内大輔に任じられる。 
 元和4年(1618年)3月、父・家次の死去により24歳で家督を相続した。しかし、相続後間もない元和5年(1619年)3月に越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石に移封されている。それから3年後の元和8年(1622年)6月7日に最上義俊が改易されたのに伴い、出羽庄内藩13万8,000石に加増され、移封された。
 庄内に入部後は交通の要衝・酒田の亀ヶ崎城に代えて、かつて大宝寺氏が拠点としていた鶴ヶ岡城を居城と定めている。しかし亀ヶ崎城も存続を許され、小藩としては異例となる2城を持つことになった。忠勝は居城とした鶴ヶ岡城の整備に努めたが、完成するのは孫の忠義の代となった。
 入部直後の検地では表高よりも実高を大幅に増やすことに成功した反面、過酷な徴税につながり、鶴ヶ岡城の普請などもあって、領民の逃散につながっている。特に寛永11年(1634年)には、遊佐郷の大肝煎であった高橋太郎左衛門が幕府に直訴しており、藩政は揺らぐ一方であった。
 忠勝晩年の寛永19年(1642年)となって、改易され忠勝に預けられていた弟の忠重が、忠勝に嫡男・忠当を廃嫡させ、忠重の子・忠広に庄内藩を継承させようとする、酒井長門守一件が起きている。この時、筆頭家老・高力喜兵衛らを追放されており、忠当も廃嫡されかかっている。しかし、廃嫡となる前の正保4年(1647年)10月17日に、忠勝が死去したため、老中・松平信綱の裁定により、忠当が家督を相続している。

  忠当は出羽庄内藩主であった酒井忠勝の長男として、元和3年(1617年)に生まれた。母は忠勝の正室である鳥居忠政の娘あるいは側室の花の丸殿と言われている。
 家督相続前の正保3年(1646年)に発生した酒井長門守一件では、叔父・忠重が自身の・忠広に庄内藩を継承させるために忠当を廃嫡させようとしており、このため家老の高力喜兵衛が追放されている。しかし、廃嫡される前に父・忠勝が死去し、老中で忠当の舅であった松平信綱の裁定により、忠当は無事家督を相続することが決まった。
 正保4年(1647年)12月11日に家督を継いだ忠当は藩主となった後、承応2年(1653年)に2万両を送って忠重を義絶している。また、弟の忠恒に出羽松山藩2万石を、忠解に出羽大山藩1万石を分知している。
 万治3年(1660年)2月9日、庄内において死去した。享年44。家督は嫡男・忠義が継いだ。

 

酒井忠寄 酒井忠順

 出羽庄内藩支藩の松山藩主・酒井忠予の次男。本家の酒井忠真の子が早世し、嗣子がなかったため養子入りし、第4代藩主・忠真の養嗣子となる。庄内藩は蝦夷警備と東北の外様大藩警守が任務で、通常幕府の役職に就かないならいであったが、忠寄は寛延2年(1749年)、46歳のとき老中に抜擢された。老中在任中、宝暦騒動(郡上一揆)始末の担当となり裁判を担当している。
明和3年(1766年)死去。家督は長男の忠温が継いだ。

 宝暦2年(1753年)12月、後に庄内藩6代藩主となる酒井忠温の庶長子として江戸に生まれる。
 父が正室・為姫(福岡藩主黒田継高の息女)を迎える前の出生のために、為姫の子で嫡出の実弟・忠徳の弟とされる。成長すると、庄内藩から2千石を与えられ、江戸に居住した。21人もの子沢山で、暮らし向きに困窮して度々、藩主で弟の忠徳から金品の援助を受けた。
 寛政5年(1793年)12月、次男・忠質が、旗本・酒井忠敬の養子となる。寛政6年(1794年)4月、長男・忠礼が松山藩5代藩主忠崇の婿養子となり、寛政10年(1798年)11月、6代代藩主となる。
 文政7年(1824年)死去。享年70。
 天保13年(1842年)、酒井右京,松平舎人,酒井奥之助等家老が、藩主・忠発を廃立して、忠順孫・忠明(忠質の子)を新藩主とする企てが発覚して、忠明は松山藩に送られ幽閉された。

酒井忠解 酒井直隆

 寛永20年(1643年)、酒井忠勝の7男として生まれる。正保4年(1647年)、父・忠勝が没するとその遺領のうち1万石を分与され、大山藩を形成する。
万治2年(1659年)、従五位下・備中守に叙任される。寛文5年(1665年)、平戸藩主松浦重信の娘と婚約する。寛文8年(1668年)、夫婦生活を得ぬまま、鷹狩り中に腸チフスにより急逝した。享年26。子女がなかったため、翌寛文9年(1669年)に大山藩は廃藩となり、代官の管轄地となった。

 天和元年(1681年)、庄内藩番頭・酒井重秋の4男として生まれる。初名は重俊。父の重秋は、藩祖・酒井家次の5男で5000石の旗本であった了次の嫡子・忠崇の子で、宗家の家臣となっていた。貞享4年(1687年)、父の家督と知行300石を相続。   
 元禄13年(1700年)、庄内藩初代藩主・酒井忠勝6男・忠直の遺跡を相続。直隆と改名して1000石を知行し家老となり藩主忠真に仕える。
 享保5年(1720年)死去。享年40。家督は嫡男の直通が相続するが、享保15年(1730年)、死去。その跡を実弟の直豫が相続。直豫は、享保17年(1732年)、出羽松山藩2代藩主・酒井忠予の養子として迎えられ、家督を相続し3代藩主・忠休となったため、酒井奥之助家の家督は、直隆の実弟・重一の長男・直恭が相続した。酒井奥之助家は、了次の子孫の酒井吉之允(玄蕃)家と並んで「両敬家」と呼ばれ藩内で重きを成した。

酒井忠方 酒井忠匡
 文政4年(1821年)、父の死去により家督を継ぐ。藩財政再建のために桑や漆などの生産を奨励し、倹約を行なうなどして藩政改革に努めたが、天保の飢饉で大被害を受けて、本家の庄内藩から借金をするという有様であった。しかし窮民の援助では尽力している。弘化2年(1845年)10月20日、家督を長男の忠良に譲って隠居する。明治20年(1887年)2月14日に死去した。享年80。  明治元年(1868年)12月、父が戊辰戦争で幕府側に与したために強制隠居処分となったため、家督を継いだ。明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。このとき、松山を松嶺と改名した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)華族に列して子爵となる。明治44年(1911年)4月30日、56歳で死去した。