SK01:酒井忠明 | 酒井忠明 ― 酒井忠利 | SK08:酒井忠利 |
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酒井忠利 | 酒井忠勝 |
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徳川家康の遠縁にあたる。兄の重忠と共に家康に仕え、小牧長久手の戦いでは大いに戦功を立てた。天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、武蔵国川越に3000石の所領を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に供奉した。 |
天正15年(1587年)6月16日、三河国西尾に生まれる。天正19年(1591年)11月、下総国に3000石を与えられる。初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦である。元和6年(1620年)4月24日、2代将軍秀忠の命で世継の家光付きとなり、元和8年(1622年)12月3日に武蔵国深谷7000石を加増され、合わせて1万石を領する。 |
酒井忠朝 | 酒井忠鄰 |
若狭小浜藩嫡子として生まれ、寛永8年(1631年)に元服。寛永12年(1635年)小姓組番頭を皮切りに、奏者番,若年寄などを歴任した。大老をも務めた江戸幕府の重鎮である忠勝の、内外共に認める後継者として幕閣の若手の出世育成コースを駆けた。『古事類苑』に拠れば、土井利勝の後継者としての利隆、酒井忠勝の後継者としての忠朝は、将来の幕府を背負って立つ若手官僚として育成されていたことが伝わる。つまり酒井家家中だけではなく、幕府からも公に後継者として認められていた上での政治活動である。学問は林羅山に学んだと伝わる。 |
長兄の忠筭が早世したため世子に指名される。宝暦6年(1756年)5月18日、父・忠大の死去により家督を継いだ。宝暦13年(1763年)10月1日、将軍・徳川家治に拝謁する。同年12月9日、従五位下大和守に叙任する。 |
酒井忠美 | |
万延元年(1860年)に父が死去したため、3歳で家督を継いだ。藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、戊辰戦争でも抗争した上で新政府に恭順し、木更津に出兵している。慶応4年(1868年)5月、従五位下・大和守に叙任する。 |