<神皇系氏族>天孫系

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酒井忠利 酒井忠勝

 徳川家康の遠縁にあたる。兄の重忠と共に家康に仕え、小牧長久手の戦いでは大いに戦功を立てた。天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、武蔵国川越に3000石の所領を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に供奉した。
 戦後、家康より7000石を加増され、合計1万石の大名として駿河田中藩に移された。慶長14年(1609年)、さらに1万石を加増され、合計2万石の大名として川越に戻された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた。その後もしばしば加増され、最終的には3万7000石を領する大名となった。
寛永4年(1627年)11月14日死去。享年69。 

 天正15年(1587年)6月16日、三河国西尾に生まれる。天正19年(1591年)11月、下総国に3000石を与えられる。初陣は慶長5年(1600年)、中山道を向かう徳川秀忠に従い従軍した関ヶ原の戦いでの上田合戦である。元和6年(1620年)4月24日、2代将軍秀忠の命で世継の家光付きとなり、元和8年(1622年)12月3日に武蔵国深谷7000石を加増され、合わせて1万石を領する。
 寛永元年(1624年)8月には3代将軍家光の上洛に従い、上総,下総,武蔵の3国のうちから2万石を加増されて、その11月に土井利勝と共に本丸年寄(老中)となる。寛永4年(1627年)11月14日、父の忠利が死去し、遺領を継いで8万石となり、川越藩2代藩主となる。寛永9年(1632年)9月19日、武蔵のうちから2万石加増され、同年12月1日には従四位下に昇叙し侍従に遷任し、讃岐守の兼帯留任。寛永11年(1634年)閏7月6日には、若狭1国および越前,近江,安房に加増され、若狭小浜へ移り、12万3500石を領する。将軍・家光から忠勝一代は国持大名とされた。
 寛永15年(1638年)11月7日には、土井利勝と共に老中を罷免され、大事を議する日のみの登城を命じられる。これが後の大老職の起こりとなる。明暦2年(1656年)5月26日に家督を四男の忠直に譲って隠居する。晩年は、若年にして酒井氏嫡流雅楽頭家の家督を継いだ忠清を後見していたという。
 寛文2年(1662年)7月12日に死去した。享年76。福井県小浜市城内鎮座の小浜神社に主祭神として祀られている。
 忠勝は家光から駿府18万石への加増を打診されたことがあったが、家康が保有していた土地を拝領するのは勿体無いと辞退した。その後、甲府24万石への加増も提案されたが、これも辞退した。家光が辞退した理由を問い質したところ、忠勝は、大禄を食めば驕りが生じ、本多正純のように失脚への道を歩むかもしれない。加増を受けたとして、自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の後の藩主たちが驕らないとも限らない、ゆえに謹んで辞退したと述べた。また、忠勝には別の思慮もあった。大老の忠勝でさえ12万石の所領しか得なかったといえば、周囲の幕臣たちも出世することに没頭せず、後世への模範となるだろうと、忠勝は考えていた。しかし晩年には、何か大事が起こった時、12万石では幕府を守り立てるのに役立てないから、もう少し加増を得ておくべきであったとも述懐している。
 家光は忠勝を特に信任し、「我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と述べたという。また、家綱が若い頃、庭の大石を外へ出すように忠勝に命令した。忠勝はこの石を外に出すには土居や塀を崩さないといけないので堪忍してくださいと申し上げてそのままになった。そこで松平信綱が「ならばあの石は土を掘って埋めてしまえば」と述べた。しかし忠勝は「物事思いのままになると思われては天下の政務に難儀のことがあろう。石はそのままにしておいても害はないことだ。若い上様には万事容易に事を執り行なわぬがよいと思いそのように申し上げたのだ」と言い、信綱を心服させたという。

酒井忠朝 酒井忠鄰

 若狭小浜藩嫡子として生まれ、寛永8年(1631年)に元服。寛永12年(1635年)小姓組番頭を皮切りに、奏者番,若年寄などを歴任した。大老をも務めた江戸幕府の重鎮である忠勝の、内外共に認める後継者として幕閣の若手の出世育成コースを駆けた。『古事類苑』に拠れば、土井利勝の後継者としての利隆、酒井忠勝の後継者としての忠朝は、将来の幕府を背負って立つ若手官僚として育成されていたことが伝わる。つまり酒井家家中だけではなく、幕府からも公に後継者として認められていた上での政治活動である。学問は林羅山に学んだと伝わる。
 慶安2年(1649年)廃嫡、勘当される。若狭小浜藩嫡子の座は、末弟である忠直に替わった。 廃嫡および幕閣追放の理由は定かではないが、他の閣僚との深刻な対立があったとも伝わる。忠勝の勘気を被ったとも、また忠勝および酒井家家中としては、この廃嫡は本意ではなかったともされる。
 寛文元年(1661年)、小浜酒井家の領地である安房国市部村に移り、勘当は解かれぬまま翌年同所で没した。遺体は安房にて荼毘に付され、小浜の酒井家菩提寺の空印寺へ埋葬された。若狭小浜藩歴代藩主と同格の墓が現存している。のちに小浜藩を継いだ弟の忠直は、兄・忠朝の長男・忠国に対し、小浜藩安房領などから1万石を分知し、安房勝山藩が立てられ子孫は大名となった。  

 長兄の忠筭が早世したため世子に指名される。宝暦6年(1756年)5月18日、父・忠大の死去により家督を継いだ。宝暦13年(1763年)10月1日、将軍・徳川家治に拝謁する。同年12月9日、従五位下大和守に叙任する。
 明和6年(1769年)、明和8年(1771年)に大坂加番を務めたが、役職に就いたために出費も激しく、さらに明和7年(1770年)には旱魃も起こり、それによって百姓による騒動が発生した(忍足佐内事件、あるいは勝山藩西領騒動)。この騒動は、金尾谷村名主の忍足佐内が年貢減免・不正を行なう役人の罷免などを求めて起こしたものであるが、勝山藩ではこれを受け入れず、逆に佐内は処刑され、家族は家財没収に処された。しかし百姓側は安永元年(1772年)から安永2年(1773年)にかけて老中に駕籠訴し、訴えが認められて不正役人らは処罰され、佐内の家族も罪を許されて終焉した。
 天明元年(1781年)、越前守に転任し、天明2年(1783年)7月に3度目の大坂加番に任じられる。寛政5年(1793年)5月6日、長男の忠和に家督を譲って隠居し、文化6年(1809年)6月27日に死去した。享年63。 

酒井忠美

 万延元年(1860年)に父が死去したため、3歳で家督を継いだ。藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、戊辰戦争でも抗争した上で新政府に恭順し、木更津に出兵している。慶応4年(1868年)5月、従五位下・大和守に叙任する。
 明治2年(1869年)5月、同名の藩(越前勝山藩)が他にあるため、加知山藩と改名する。6月には版籍奉還により知藩事となるが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、新たに加知山県知事となる。しかし11月の廃県により免職となった。
 明治12年(1879年)、嫡男の忠勇に家督を譲って隠居する。大正12年(1923年)3月13日に死去、享年66。