<神皇系氏族>天孫系

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酒井忠直 酒井忠囿

 慶安2年(1649年)、兄・忠朝が廃嫡されたため嫡子となり、明暦2年(1656年)5月26日、父の隠居により家督を継いだ。
 寛文8年(1668年)、甥の忠国(忠朝の子)に1万石を分与して支藩である安房勝山藩を立藩した。延宝5年(1677年)、預かっていた堀田正信が密かに上洛し、清水寺や石清水八幡宮に参拝したため、預かりの責任者である忠直は閉門処分となり、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。
 藩政においては父の政策を受け継いで、藩の諸制度の確立と整備、新田開発、寛文近江・若狭地震の被害復興(被災した小浜城の修理、三方五湖の浦見川運河治水工事など)、文学の奨励などを行なって藩政を指導した。忠直は実直で守成の名君だったと言われている。
 天和2年(1682年)7月10日、小浜で死去した。享年53。

 貞享3年(1686年)、父の死去により家督を継いだ。元禄10年(1697年)、病気のため辞退した水野勝種に替わって、美作津山藩主森長成が徐封となった津山城の受け取りを松平直明と共に務める。
 元禄14年(1701年)、松之大廊下で吉良義央が刃傷を受けると、見舞いの使者として鈴木団右衛門を派遣している。また、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件では鉄砲洲で引き揚げの赤穂義士を咎め、通行を阻止した。
 宝永3年(1706年)9月8日、嗣子無くして小浜で死去した。享年37。このため、分家の敦賀藩から忠音を養嗣子に迎えて家督を継がせた。 

酒井忠義 酒井忠氏

 幕末期の幕政に参与し、天保14年(1843年)から7年間と安政5年(1858年)から4年間、京都所司代を務めた。安政5年(1858年)に将軍継嗣問題が起こると、南紀派を支持して一橋派を弾圧した。これが後の井伊直弼による安政の大獄の一因をなしたと言われている。ただし忠義は、自身の元の家臣であった梅田雲浜の捕縛には消極的であったが、長野主膳からの強い脅しに屈する形で志士弾圧に踏み切ることになった。忠義が入京した9月2日以降、まず捕縛したのは浪人,儒者らであり、諸藩の藩士,公家らへの本格的な弾圧が始まるのは、老中・間部詮勝が入京した9月16日以降である。また、和宮降嫁など公武合体にも尽力し、尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋騒動では標的にされている。
 文久2年(1862年)に諱を忠禄改めるが、在職中の失政を問われて所司代を罷免され、娘婿の忠氏に家督を譲り隠居謹慎に追い込まれた。1868年(明治元年)、忠氏が鳥羽伏見の戦いに参戦して山陰道鎮撫軍に降伏すると、名代として上京、謝罪をするとともに、藩兵を新政府軍に派遣している。同年、佐幕的行動をとったとして謹慎処分を受けた忠氏の隠居を受け、藩主に返り咲いている。1870年(明治3年)9月に分家筋である鞠山藩(敦賀藩)を合併した際に藩知事の地位を鞠山藩の酒井忠経に譲る。1873年(明治6年)、61歳で死去した。 

 嘉永6年(1853年)5月7日、先代藩主の忠義の養嗣子となる。文久2年(1862年)閏8月1日、忠義がかつて安政の大獄で井伊直弼と共に尊王攘夷派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その跡を継ぐこととなった。幕末期の動乱の中では佐幕派として行動し、天狗党の乱鎮圧などで功績を挙げている。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の一員として官軍と戦ったが、敗走して小浜に戻る途中の丹波国天王村で西園寺公望率いる山陰道鎮撫軍に遭遇し、その場で官軍に降伏することを余儀なくされた。
 同年5月27日、家臣団の一部がなおも旧幕府側の彰義隊に与したことを判明したため、忠氏は養父とともに謹慎を願い出ると、新政府からはこれを受ける形での謹慎が命じられた。後に罪を許されたが、同年12月に病を理由に家督を養父の忠録(忠義)に譲って隠居した。明治9年(1876年)正月21日、42歳で死去した。