SK08:酒井忠利 | 酒井忠明 ― 酒井忠利 ― 酒井忠直 | SK09:酒井忠直 |
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酒井忠直 | 酒井忠囿 |
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慶安2年(1649年)、兄・忠朝が廃嫡されたため嫡子となり、明暦2年(1656年)5月26日、父の隠居により家督を継いだ。 |
貞享3年(1686年)、父の死去により家督を継いだ。元禄10年(1697年)、病気のため辞退した水野勝種に替わって、美作津山藩主森長成が徐封となった津山城の受け取りを松平直明と共に務める。 |
酒井忠義 | 酒井忠氏 |
幕末期の幕政に参与し、天保14年(1843年)から7年間と安政5年(1858年)から4年間、京都所司代を務めた。安政5年(1858年)に将軍継嗣問題が起こると、南紀派を支持して一橋派を弾圧した。これが後の井伊直弼による安政の大獄の一因をなしたと言われている。ただし忠義は、自身の元の家臣であった梅田雲浜の捕縛には消極的であったが、長野主膳からの強い脅しに屈する形で志士弾圧に踏み切ることになった。忠義が入京した9月2日以降、まず捕縛したのは浪人,儒者らであり、諸藩の藩士,公家らへの本格的な弾圧が始まるのは、老中・間部詮勝が入京した9月16日以降である。また、和宮降嫁など公武合体にも尽力し、尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋騒動では標的にされている。 |
嘉永6年(1853年)5月7日、先代藩主の忠義の養嗣子となる。文久2年(1862年)閏8月1日、忠義がかつて安政の大獄で井伊直弼と共に尊王攘夷派や一橋派を弾圧したことを咎められて強制隠居処分に処せられたため、その跡を継ぐこととなった。幕末期の動乱の中では佐幕派として行動し、天狗党の乱鎮圧などで功績を挙げている。慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の一員として官軍と戦ったが、敗走して小浜に戻る途中の丹波国天王村で西園寺公望率いる山陰道鎮撫軍に遭遇し、その場で官軍に降伏することを余儀なくされた。
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