<神皇系氏族>天孫系

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酒井忠毗 酒井忠経

 天保4年(1833年)、父の死去に伴い家督を継いだ。天保14年(1843年)から若年寄を3度も歴任した功績を認められ、文久元年(1861年)9月に1千80石を加増され、翌年6月には無城大名から城主格に任じられた。
 安政6年(1859年)、ロシアの東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが軍艦7隻を率いて江戸湾の品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、同年7月26日、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛の遠藤胤統と忠毗を通してこれを完全に退けた。一方、同年10月、藩の財政難から本家の若狭国小浜藩に所領を返還し廃藩(統合)しようとしたが、領民が猛反対したために中止された。一方で上述のように城主格となったため、それまで江戸定府の陣屋大名であった敦賀藩酒井家に参勤交代の義務が生じることとなり、藩財政はさらに悪化した。
 万延元年12月4日(1861年1月14日)、ヘンリー・ヒュースケン殺害事件が発生、その抗議としてイギリス公使ラザフォード・オールコックとフランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールは横浜に退去した。その後の江戸復帰の交渉相手として、オールコックは当時外国掛であった忠毗を指名した。忠毗はオールコックと老中の交渉にたびたび出席しており、オールコックがその能力を評価しての指名であった。
 文久3年5月17日(1863年7月2日)、生麦事件賠償のため、イギリス代理公使ジョン・ニール、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールらとの交渉を行っている。その際に薩摩藩は英国との直接交渉を望んでおり、英国の薩摩国遠征を取りやめるように依頼しているが、結果としては忠毗の危惧通り、薩英戦争は英国が薩摩藩と接近するきっかけとなった。また、元治元年9月22日(1864年10月22日)には、下関戦争の解決のため、横浜でイギリスやフランス、アメリカおよびオランダと交渉して賠償金の支払いに合意している。
 このように幕閣の一員として佐幕の立場を貫いたが、大政奉還直前の慶応3年(1867年)6月17日、子の忠経に家督を譲って隠居した。鳥羽・伏見の戦い後、次第に近隣諸藩が新政府軍側に与し始めると、敦賀藩もまた新政府に恭順した。明治9年(1876年)2月12日、62歳で死去した。 

 慶応3年(1867年)6月17日、佐幕派の立場に苦しんだ父の隠退により家督を継ぐ。翌年の戊辰戦争では本家の小浜藩が幕府側に与したのに対して、忠経は父と180度方向を転換して新政府側に与した。
 明治元年(1868年)6月、朝廷伺候のため訪れた京都において、藩士5人が家老の野口文太夫らを殺害する事件が発生した(鞠山騒動)。野口が忠経を若年と侮り、専横の振る舞いがあったためという。
 明治2年(1869年)には版籍奉還により藩知事となる。明治3年(1870年)5月、敦賀藩を鞠山藩と改称した。
 同年9月、小浜藩との合併に伴って小浜藩知事となるが、翌年7月の廃藩置県で廃藩となった。明治17年(1884年)12月5日、37歳で死去した。