<神皇系氏族>天孫系

SK01:酒井忠明  酒井忠明 ― 酒井重忠 SK05:酒井重忠

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酒井重忠 酒井忠世

 三河国坂井郷出身。徳川氏の譜代家臣・酒井正親の次男で若い頃から徳川家康に仕え、永禄12年(1569年)の遠江掛川城攻め、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなど、家康初期の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げた。天正4年(1576年)、父・正親が死去するとその跡を継いで三河西尾城主となった。天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が死去した時、家康一行は伊賀越えを行った。このとき、重忠は本国の留守居を任されていたが、家康一行が伊勢国まで逃れてきた時、白子で家康一行を船で出迎え、その安全を確保した。家康を救った時、その船に立てた船印を重忠は馬印として使ったという。
 これらの功績により、天正18年(1590年)に家康が関東に移封されると、武蔵川越に1万石の所領を与えられた。文禄元年(1592年)からの文禄の役では江戸城の留守居役を務め、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、その後は近江国大津城の守備を担った。戦後、家康からその戦功を賞されて、上野厩橋に3万3000石の所領を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では江戸城の留守居、兵糧輸送の責任者などを務めた。
元和3年(1617年)7月21日、69歳で病死した。

 酒井重忠の長男として三河国西尾に生まれる。徳川家康に仕え、天正16年(1588年)には後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉、天正18年(1590年)1月に家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは6月の会津征伐、7月に第二次上田合戦に従う。
 慶長10年(1605年)に将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり、慶長12年(1607年)7月には駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務める。元和3年(1617年)7月、父・重忠が死去して遺領の厩橋3万3千石を継ぎ、それまでの領地と併せて8万5千石となる。元和9年(1623年)、秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わる。
 寛永9年(1632年)5月に松平康長の後任として西の丸留守居となる。寛永11年(1634年)6月、家光が30万の大軍を率いて上洛した際に、7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり、寛永11年12月には登城が許され、西の丸番に復職するが、老中職からは退けられた。寛永13年(1636年)3月に大老に任じられたが、まもなく65歳で没。

酒井忠清 酒井忠挙

 寛永元年(1624年)10月19日、酒井家江戸屋敷に生まれる。
 寛永7年(1630年)1月26日には将軍・家光が忠清の祖父・忠世邸に渡御しており、忠清も初目見して金馬代を献上し、家光から来国光の脇差を与えられている。
 寛永13年(1636年)3月19日には祖父・忠世、同年11月17日には父・忠行が相次いで死去する。翌寛永14年(1637年)1月4日に遺領12万2,500石のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され、同日には弟の忠能にも上野伊勢崎藩を分地された。
 寛永15年(1638年)に出仕し、従五位下・河内守に任じられる。雅楽頭家嫡流として父の忠行が務めていた奏者番を命じられ、武家故実を習得して殿中儀礼の諸役を務める。同年、土井利勝と酒井忠勝が大事の折の登城を命じられ、これが後の大老の起こりとされる。
 家光の死後、家綱政権が成立し、忠清は引き続き奏者番を務める。西の丸老中が本丸老中へ吸収され、承応2年(1653年)6月には忠清も老中に就任し、諸役と兼任する。忠清は就任と同時に老中首座として松平信綱,松平乗寿,阿部忠秋と共に4人連署体制を構成するが、翌3年(1654年)には乗寿が死去し、万治元年(1658年)閏12月29日に稲葉正則が加えられるまでは3人体制となる。寛文6年(1666年)3月26日、大老職に就任する。保科正之や阿部忠秋が没すると権力が集中し、新たに久世広之・土屋数直・板倉重矩を加えた老中達と共に将軍家綱を補佐して殉死禁止令や、伊達騒動(寛文事件),延宝年間に越後高田藩で生じた越後騒動などのお家騒動の裁定に関わった。
 延宝8年(1680年)5月には家綱が死去し、8月には家綱の異母弟・綱吉が将軍宣下を受けると、12月9日には病気療養を命じられ、大老職を解任される。
 翌延宝9年(1681年)2月27日に隠居し、5月19日に死去。享年58。遺体は龍海院に葬られた。

 寛文6年(1666年)から父が行っていた殿中儀礼を務めた。延宝9年(1681年)2月27日、父が幕政を退き隠居したため家督を相続。襲封した15万石のうち2万石を弟の酒井忠寛に分与し、分家伊勢崎藩の創設を幕府に認められる。
 同年5月19日に父が没し、6月28日に父が裁定を下した越後騒動の連座で第5代将軍・徳川綱吉から逼塞を命じられた。12月27日に逼塞を解かれ、貞享2年(1684年)4月には奏者番兼寺社奉行に就任し、元禄2年(1689年)には病のため辞職した。元禄9年(1696年)に溜間詰になり、元禄11年(1698年)2月15日に江戸城大留守居に任じられた。しかし、延宝2年(1674年)の松平定房以来24年ぶりの役職であるため、職務に戸惑うことが多く、老中・阿部正武や側用人の柳沢吉保に問い合わせをしている。その後も勤務状況は変わらず、元禄13年(1700年)2月15日に病気で辞職した。大留守居については、家格の高い酒井氏に与えた閑職ではないかとされている。
 宝永4年(1707年)には2万石加増を受け15万石に復するが、同年11月7日に隠居、家督を長男の忠相に譲った。しかし、忠相が僅か3ヵ月後の宝永5年(1708年)1月25日に急死、後を継いだ孫の親愛は若年のため、隠居の身でありながら親愛の後見を務めた。
 幕府政治への改革を度々老中への私信という形で提言したが、綱吉政権では取り上げられなかった。しかし、紀州藩主・徳川吉宗が第8代将軍に就任すると稲葉正往,小笠原長重と共に幕府の旧臣として優遇された。とりわけ吉宗は忠挙を召しだしたり林信篤を通して下問したので忠挙も吉宗に意見を申し上げている。享保5年(1720年)11月13日に死去、享年73。
 藩政は文武両道を心がけ、辻月丹資茂に無外流剣術を学び、儒学者佐藤直方を招聘した。検地と社倉制を始め、『前橋風土記』の編纂や藩校好古堂を興したり、厩橋城の名を前橋城に改めた。

酒井忠能

 寛永5年(1628年)3月17日、江戸屋敷に生まれる。寛永13年(1636年)に祖父の忠世と父が相次いで死去すると、兄の忠清と共に遺領を相続し、忠能は上野那波郡など3郡2万2,500石を分知されて伊勢崎藩主(那波藩主)となった。
 将軍家世継の家綱付きとして三の丸奏者番を務め、家綱が将軍となると本丸奏者番となる。寛文2年(1662年)6月4日、7,500石を加増されて3万石の上で、信濃小諸藩に移封される。前藩主・青山宗俊の用水工事で田地が増加した結果、小諸領内に検地を実施し(寛文の総検地)、百姓に対して苛酷な政治を行なったため、百姓は餓死したり乞食になったり、領地から逃散したりして遂には領内で領民による一揆が発生した(芦田騒動)。だが忠能は庄屋の訴えを聞き入れず、百姓は総決起して幕府に強訴するも、当時は忠清が絶頂の時であり幕府は首謀者を処刑し、延宝7年(1679年)9月6日、1万石加増の上で駿河田中藩へ移封させるという喧嘩両成敗を行なって騒動を鎮静させた。この時の忠能の移封を小諸の民衆は喜んだ。
 延宝8年(1680年)に家綱が死去すると徳川綱吉が第5代将軍に就任し、大老職を務めていた兄の忠清は解任され、翌天和元年(1681年)に死去する。同年12月10日に忠能も在国中の逼塞と勤務怠慢を理由に改易された。改易の真相は不明であるが、忠清を疎んでいたといわれる綱吉が連座として改易処分に処したとも、不審死であったともいわれる忠清の遺体を検死させなかったことを恨んでの意趣返しとも言われている。忠能の身柄は近江彦根藩主・井伊直興預かりとなるが、元禄3年(1690年)4月19日に許されて2,000俵を給され、同年8月には5,000石の旗本寄合として存続を許されている。
 宝永元年(1704年)6月27日、養子の忠佳(忠能のはとこ・酒井忠英の次男)に家督を譲って隠居し、宝永2年(1705年)5月22日に死去、享年78。