<神皇系氏族>天孫系

SK05:酒井重忠  酒井忠明 ― 酒井重忠 ― 酒井忠恭 SK06:酒井忠恭

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酒井忠恭 酒井忠因

 前橋藩主となっていた長兄の親本に子がなかったため、その跡を継いだ。幕府では大坂城代や老中首座を歴任した。安永元年(1772年)に藩主在職のまま死去し、跡は孫の忠以が継いだ。
 寛延2年(1749年)、忠恭は前橋から姫路に転封する。
酒井家は前橋にいた頃から既に財政が悪化していた。酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用、加えて前橋藩領内は利根川の氾濫が相次ぎ、あまり豊かでなかった、つまり財政基盤の脆弱さなどが大きかった。そのため家老の本多光彬や江戸の用人犬塚又内らは、同じ15万石ながら畿内の先進地に位置し、内実はより豊かと言われていた姫路に目をつけ、ここに移封する計画を企図し、忠恭もそれに乗った。
 ところが、本多と同じく家老の川合定恒は「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、本多、犬塚らの国替え工作は以後、川合を頭越しに秘密裏に行われた〔移封後の寛延4年(1751年)、川合は本多、犬塚の両名を殺害し、代々の藩主への謝罪状をしたためて自害している〕。
 酒井家の期待とは裏腹にその頃姫路では、寛延元年(1748年)夏に大旱魃が起きたが姫路藩松平家は年貢徴収の手を緩めなかったため、領民の不満が嵩じている中で藩主・松平明矩が同年11月16日に死去する。そして不満が爆発した印南郡的形組の農民が12月21日に蜂起した。この一揆は「家財を売り払っても年貢完納ができない者は来季まで待つ」という触書によっておさまりを見せたが、1月15日に前橋の忠恭と姫路の松平喜八郎(朝矩)の領地替の命令が出されたことで借金の踏み倒しを恐れた領民は1月22日に再び蜂起し藩内各地を襲撃し、その被害は藩内全域に及んだ(寛延大一揆) 。
 一揆は2月には収拾したが、この混乱が尾を引き、酒井家の転封は5月22日にずれ込んだ。藩士の移住はさらに遅れ、しかも7月3日には姫路領内を台風が襲い、死者・行方不明者を400人以上も出した。8月にも再び台風が襲い、田畑だけではなく領民3000人余が死亡するなどの大被害を受け、酒井家はますます財政が悪化した。  

 抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)に忠以に長男・忠道が生まれると、仮養子願いは取り下げられてしまう。
 酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄の忠以も茶人,俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊廓に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
 絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信や狩野惟信に手解きを受けた。また、天明3~4年(1783年~1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える肉筆美人画「松風村雨図」なども描いている。抱一の美人画は、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。
 俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖・宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。
 寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主・文如に随って出家し、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになったともいえる。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を名乗ることになる。また、谷文晁,亀田鵬斎,橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。また、市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
 抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳,松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、その作品が残っていたことも幸いしている。
 光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催し根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。
 晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる。文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院。

酒井忠以 酒井忠道

 父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。絵画,茶道,能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』や『富士山図』等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
 天明元年(1781年)、京都朝廷に使者として出かけることになった。出発の朝になると、愛犬の狆が玄関まで飛び出してきて駕籠を離れず、やむをえず品川まで連れて行き、そこでなだめたが効果がなく、結局京都まで連れて行ったところ、この噂が京都で広まり、天皇の耳にまで届き、「畜類ながら主人の跡を追う心の哀れなり」ということで、この狆に六位の位が与えられた。
 一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革にあたらせようとした。だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。家督は長男の忠道が継いだ。
 筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を『玄武日記』『逾好日記』に書き遺している。忠以の大成した茶懐石は『逾好日記』を基に平成12年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現している。  

 寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の8男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。
 文化11年(1814年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)に61歳で死去した。  

酒井文子 酒井忠績

 7代藩主・酒井忠顕の正室となり、忠顕の娘婿であった18代当主・酒井忠邦の早世後、忠邦の遺児・忠興が満8歳となるまで19代当主を務めた。
 1844年(天保15年)8月7日、姫路藩5代藩主・酒井忠学の6女として生まれる。忠学は同年10月10日に死去した。忠学に男子はなく、婿養子(文子の長姉・喜曾の夫)に迎えた一族の忠宝が第6代藩主となった。文子は忠宝の養女となり、田原藩主・三宅康直の子の稲若を婿養子に迎える。稲若改め酒井忠顕は1853年(嘉永6年)に家督を相続して第7代藩主となるが、1860年(万延元年)10月14日に死去した。
 酒井家は以後も同族からの養子による跡目相続が3代続いたが、廃藩後の1879年(明治12年)4月17日に当主・忠邦がまだ出生していない遺腹の子(忠興)を遺して死去した際、文子が家督を相続して当主となった。1884年(明治17年)に華族令が施行され、華族家の当主には5階の爵位が授けられたが、文子は女戸主のため爵位は授けられていない。1887年(明治20年)6月6日、満8歳となった忠興に家督を譲る。同年同月、忠興に伯爵が授けられた。 
 1908年(明治41年)3月16日、死去する。享年64。  

 姫路藩分家の旗本・酒井忠誨の長男として生まれる。本家の姫路藩主・酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、万延元年(1860年)に家督を相続する。
 文久2年(1862年)5月、幕命により京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びて上洛・入京した。安政の大獄期に京都所司代に就任した若狭小浜藩主・酒井忠義は、万延元年に桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代の松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代職は空席という、開幕以来の異常事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の所司代として正式に承認されるまで4か月間臨時所司代の任にあたった。
 京都市中警備の功績により、文久3年(1863年)6月18日に老中首座となる。老中就任後は兵庫開港をめぐって朝廷対策に奔走する一方、年末に14代将軍徳川家茂の上洛が決定すると、常陸水戸藩主・徳川慶篤,武蔵忍藩主・松平忠誠と共に江戸城留守居役を命じられる。ちょうど1年後の元治元年(1864年)6月18日に老中職を退いたが、8か月後の元治2年(慶応元年,1865年)2月1日には大老となった。そして第二次長州征討の事後処理、幕府軍の西洋式軍制の導入など幕政改革に尽力した。一方、藩内で台頭してきた重臣・河合屏山ら多数の尊王派を粛清する「甲子の獄」と呼ばれる事件を起こしている。
 慶応3年(1867年)2月に隠居し、次弟で養子の忠惇に家督を譲る。ところが戊辰戦争の際に鳥羽・伏見の戦いの責任を問われた忠惇は江戸で蟄居、同じく忠績も謹慎をしていたが、憤懣やるかたない忠績は慶応4年(1868年)5月5日に江戸城の新政府軍大都督府に対して、謹慎の姿勢を貫いている徳川家の処遇への不満と共に、酒井家は徳川家譜代の家臣であり、徳川家との主従関係を断ち切ってまで朝廷に仕えるのは君臣の義に反するので、この際所領を返上したいとする嘆願書を提出する。対応に苦慮した新政府は、忠惇に替わり遠縁の伊勢崎藩主家から急遽養子に入って酒井宗家を相続した最後の藩主・酒井忠邦に忠績の翻意を促すよう命じるが、功なく忠惇までもが忠績の考えに賛同する有様であった。立場をなくした姫路藩は新政府に迫られるままに藩内の佐幕派の粛清に乗り出し、忠績,忠惇の側近を一掃した。明治元年となった直後の同年9月14日、忠績は実弟の静岡藩士・酒井忠恕方での同居が認められ、事態は収拾した(後に忠惇もこの忠恕方に預けられている)。
 明治13年(1880年)11月、終身華族となる。明治22年(1889年)5月には忠邦の子・酒井忠興の酒井伯爵家とは別に一家を立てることが許されて、永世華族に列して男爵を授けられた。明治28年(1895年)に死去、享年68。墓地は染井霊園であるが、近年、無縁墓となり、撤去が予定されている。  

酒井忠交

 明和7年(1770年)4月18日に元服する。閏6月23日に1万石を分与されて姫路新田藩を立藩し、帝鑑詰めとなった。その後、日光祭礼奉行や駿府加番などを務めた。大坂加番も務めている。
 享和4年(1804年)1月20日に死去した。享年51。跡を次男の忠質が継いだ。