SK05:酒井重忠 | 酒井忠明 ― 酒井重忠 ― 酒井忠恭 | SK06:酒井忠恭 | ● |
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酒井忠恭 | 酒井忠因 |
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前橋藩主となっていた長兄の親本に子がなかったため、その跡を継いだ。幕府では大坂城代や老中首座を歴任した。安永元年(1772年)に藩主在職のまま死去し、跡は孫の忠以が継いだ。 |
抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)に忠以に長男・忠道が生まれると、仮養子願いは取り下げられてしまう。 |
酒井忠以 | 酒井忠道 |
父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。絵画,茶道,能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』や『富士山図』等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。 |
寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の8男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。 |
酒井文子 | 酒井忠績 |
7代藩主・酒井忠顕の正室となり、忠顕の娘婿であった18代当主・酒井忠邦の早世後、忠邦の遺児・忠興が満8歳となるまで19代当主を務めた。 |
姫路藩分家の旗本・酒井忠誨の長男として生まれる。本家の姫路藩主・酒井忠顕に子がなかったため、その養子となり、万延元年(1860年)に家督を相続する。 |
酒井忠交 | |
明和7年(1770年)4月18日に元服する。閏6月23日に1万石を分与されて姫路新田藩を立藩し、帝鑑詰めとなった。その後、日光祭礼奉行や駿府加番などを務めた。大坂加番も務めている。 |