三木松平家

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平信孝 MT40:松平信孝

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松平信孝

 父の松平信忠は家督を長男の清康に譲る際、信孝(蔵人)には械木(合歓木)を、3男の康孝には三木の地を分与した。清康が家臣に殺害されると(森山崩れ)、家督を継いだ甥・松平広忠は大叔父の松平信定によって岡崎城から追放されていたが、信孝は広忠を援助し帰城させ後見役となった。
 しかし、次第に弟・康孝の旧領である三木を横領するなど権勢を恣にするようになり、広忠や家臣達と対立して失脚し病気だった広忠の代理で駿府の今川義元に年賀の祝い述べに行っている間に三木城を攻め取られたことに不満をもち、今川義元に直訴したが退けられた。
 しかし、広忠との関係には二心などはなかったとみられ、阿部定吉ら年寄衆の合議で広忠も仕方なく信孝を追放したと見るべきである。
 信孝は尾張国の織田氏に寝返って山崎城に拠り、同じく織田方に寝返っていた上和田城の松平忠倫や上野城の酒井忠尚らと共に広忠と対峙した。1548(天文17)年の小豆坂の戦いの後、岡崎城を攻撃しようと出陣したが、耳取縄手で討ち死した。
 合戦後、叔父・信孝の首を見た広忠は数少ない肉親を失ったことに号泣し、広忠側の都合で敵にまわしたのに信孝の命まで奪った無慈悲を訴えた。これには報告に参上した家臣達も思わず道理と、鎧の袖を涙で濡らしたという。