能見松平家

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阿知和重玄 松平重吉

 在所であった額田郡阿知和から「阿知和」を称した。元亀2年(1571年)、武田信玄の軍勢が三河国・遠江国に進攻し、3月には足助城などが陥落した。この際、足助の住人の間には、武田氏に味方して岡崎を攻めようとする動きがみられた。このため徳川家康は、阿知和玄鉄と青山忠門に命じて岡崎北方の防衛に当たらせた。玄鉄と忠門は百々村に柵をめぐらせて兵士を配置し、斥候を立て、夜には篝火をたいて、岡崎への通路を警備した。果たして一揆勢は百々村に襲来したが、それ以上進むことはできなかったという。

 次いで4月に遠江国で郷民が蜂起し、作手口から三河に乱入して岡崎に向かい、岩津村付近の各所に放火した。玄鉄は青山忠門,忠重兄弟および卯野小兵衛らとともに岩津村に急行して敵を打ち破った上、逃げる敵を追って鈇礪山で戦った。『寛政譜』の青山家側の記載によれば、岩津村から鈇礪山にかけての戦いは厳しいもので、青山家は忠重をはじめ将兵に多くの死者を出し、忠門も阿知和村の左石において敵を討ち取った際に受けた傷がもとで死亡したという(ただし忠門の死には異説がある)。敵は吉田口から遠江へ退き、玄鉄と青山一族の奮戦は家康の御感をこうむったという。

 その後、阿知和玄鉄は戦死したと伝えられているが、時期も死没地も不明である。

 永禄元年(1558年)、主君・今川氏に背いた鈴木重辰(日向〈の居城・寺部城攻めの際は松平元信(後の徳川家康)に従って功績を立てた。三河一向一揆が起きると酒井忠尚の居城・上野城を攻め、戦功を挙げる。家康の嫡男・信康が武節城,足助城攻めで初陣を飾った時は、鎧を身に付けさせる具足親となった。天正8年(1580年)死去、享年82。