MT01:松平親氏 | 松平親氏 ― 松平信定 | MT33:松平信定 |
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松平信定 | 松平家次 |
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3男であった信定の家督継承を望む声があったといわれているが、3男ゆえに叔父・松平親房の養子に出されたため宗家跡目の候補から外され、叔父の所領・三河国碧海郡桜井に桜井城を築き居城した。信定は宗家に対して従順といえる姿勢ではなかった。 |
天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父の清定,酒井忠尚,榊原長政らとともに広忠と戦うが敗れる。翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張品野城は忠尚の居城となり、品野城を明け渡す。天文22年(1553年)三河下和田の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家の松平忠茂と争うが、弘治2年(1556年)家次の敗訴に終わる。松平元康の命で品野城に攻めてきた織田軍を撃退し功績をあげた。三河一向一揆が起きると一向衆側に味方した。 |
松平家広 | 松平忠吉 |
父・忠正が年少の時に死去し、後を継いだ叔父松平忠吉もほどなく死去したために5歳で家督を継いだ。天正12年(1584年)に小牧の戦いで酒井忠次の軍勢に加わり、功績を挙げる。天正18年(1590年)、徳川家康の関東入封に伴って武蔵国松山城と1万石(後に2万5,000石)が与えられ、松山藩初代藩主となった。25歳で死去。死因は病死と言われているが、家老の堀勘兵衛を殺害したことで徳川家康の勘気を受けて自害したとも伝えられる。家督は松平忠頼が相続した。 |
1577年に家督を継いでいた兄・忠正が亡くなり、忠正の嫡子・家広はまだ生まれたばかりであったため、兄の正室であった多劫姫(徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継ぐ。1581年の高天神城攻めや諏訪原の出城を守るなどして軍功を挙げるが、24歳で夭折。その跡は甥の家広が継いだ。 |
松平忠頼 | |
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して三河岡崎城の守備を務め、戦後は尾張犬山城と美濃金山城の守備を務めた。同年、叔父・松平家広の後を継いで武蔵松山藩の第2代藩主となるが、この功績により、美濃金山藩1万5000石を加増されて2万5000石の大名となる。 |