徳川家

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 徳川家康 TG01:徳川家康

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徳川家康 松平信康

 江戸幕府初代征夷大将軍。安祥松平家5代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。織田信長との織徳同盟を基軸に勢力を拡大。豊臣秀吉の死後に引き起こした石田三成との関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣氏に対抗しうる地位を確立。1603年に後陽成天皇により征夷大将軍に任じられ、278年間続く江戸幕府を開いた。関ヶ原の戦いの後も、領地を削減されたとはいえ豊臣氏(豊臣秀頼)は一定の力を有していたが、方広寺に納める梵鐘の鐘銘を巡る一連の紛争である方広寺鐘銘事件を契機として豊臣方と開戦し(大坂の陣)、1615年に大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼし、全国支配を磐石なものにした。三英傑の一人である。

 

詳細はWikipedia(徳川家康)参照  

 

 父の家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)に徳川に改姓しているため、生前は徳川信康と名乗っていたということになる。しかし、江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は徳川将軍家と御三家・御三卿のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「岡崎三郎松平信康」に格下げされたという。
 永禄2年(1559年)3月6日、松平元康の長男として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。
 永禄10年(1567年)5月、織田信長の娘・徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。天正元年(1573年)に初陣。天正2年(1574年)に信康に付属された松平親宅が何度も諫言するも聞き入れなかったとして、役目を返上して蟄居・出家している。
 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは17歳で、徳川軍の一手の大将として参加した。その後も武田氏との戦いでいくつかの軍功を挙げ、勇猛さが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江国横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったという。天正6年(1577年)3月には小山城攻めに参軍する。
 天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れた翌日、信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された。その後、遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。享年21(満20歳没)。信康の首は舅である信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られた。
 この信康の切腹については、徳姫による父・信長への12箇条の手紙が要因とする説と信康の不行状に対する家康の苦渋の決断とする説がある。両者とも考えられる。
 前者は、徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、信長に対して12箇条の手紙を書き、信康との不仲と築山殿の武田勝頼への内通を伝えた。使者として信長の元に赴いた徳川家の重臣・酒井忠次に内容を糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求し、家康はやむをえず信康の処断を決断した。
 後者は、信康の気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張した。また、鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、謝罪している。さらには、家臣に対し無常・非道な行いがあったとしている。

督姫 亀姫

 三河国の生まれ。天正10年(1582年)、本能寺の変により父の同盟者だった織田信長が死去して甲斐国や信濃国が無主状態となると、父・家康と北条氏直による甲信地方を巡っての領土争いが始まる(天正壬午の乱)。当時の徳川氏と北条氏を比較すると、国力面や動員兵数においては北条氏が上回っていたが、黒駒の戦い,信濃豪族の取り込みでは徳川氏が有利という状況であった。このまま戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることを互いに認めて和睦した。この時の和睦条件の一つとして天正11年(1583年)8月15日、督姫が氏直の正室として嫁いだ。督姫は氏直との間に2女を生む。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏は滅亡する。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。督姫は後に赦免された氏直の下に赴くも、翌天正19年(1591年)に氏直が死去したため、父の下へ戻った。
 文禄3年(1594年)12月27日、秀吉の肝煎りで池田輝政に再嫁した。この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆)と「後三年合戦絵詞」を持参している。輝政との夫婦仲は良く、5男2女をもうけた。慶長14年(1609年)4月2日に、息子の池田忠継,忠雄,輝澄を連れて駿府の家康に会いに行った。総勢5千人余りの大行列だったという。3人の息子はこのとき、8歳の徳川頼宣と共に能楽を演じた。このとき督姫は母・西郡局のために、自分が家康と同じ浄土宗に変わることを条件に、輝澄を日蓮宗にすることを家康に願い出て認められた。
 慶長18年1月25日(1613年3月16日)に夫の池田輝政が死去した。5月27日には、輝政の死去に伴う相続の処理のためか駿府に到着している。6月22日には帰国したが、家康の配慮で輝政を亡くした督姫を慰めるためにそれまで留めていたという。
 慶長20年(1615年)、家康と会うため滞在していた二条城で疱瘡にかかり、そのまま死去した。享年41または51。墓所は知恩院の塔頭・良正院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。東京国立博物館には法体後の姿を描いた「良正院像」が所蔵されている。
 元和2年(1616年)、輝政の長男・池田利隆は継母の督姫の後を追うように死去した。

 永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)頃に家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)、信昌へ嫁いだ。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌,家治,忠政,忠明)と1女(大久保忠常室)を儲ける。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)に夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、3男・忠政共々加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。やがて忠政、宇都宮藩の嫡・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。 寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去した。墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にある。4人いた妹たちには全て先立たれている。
 亀姫を「宇都宮城釣天井事件」の黒幕とする説がある。嫡男・家昌の遺児で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩に転封となった。忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのは本多正純である。亀姫は正純を快く思っていなかった。その理由は、大久保忠隣失脚事件である。信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁していたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密であった。だが、娘婿・忠常が早世し、頼みとする忠隣は不可解な改易となり、心を痛めていた亀姫は、正純とその父・本多正信が奸計で忠隣を陥れた、と見なした。さらに、忠昌の転封にも我慢がならなかった。年少ゆえの移封であれば忠昌相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。しかも、それまでの奥平家が10万石であったのに、正純になった途端15万石というのも承服しかねた。そこで、異母弟の第2代将軍徳川秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿に釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と洩らしたとされる。釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されることとなった。その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである。

振姫 小松姫

 文禄4年(1595年)2月に豊臣秀吉の命により蒲生秀行と婚約、慶長3年(1598年)11月5日に輿入れする。『言経卿記』には慶長元年(1596年)12月に祝言を挙げていたと記されている。蒲生忠郷、蒲生忠知の2男と1女崇法院(加藤忠広正室)を儲ける。関ヶ原の戦いでは、振姫の縁と会津から宇都宮への減封で遺恨があったことから秀行は東軍に就き、その功績で会津60万石に返り咲くこととなる。
 ところが、夫の秀行が慶長17年(1612年)に30歳で急死する。長男・忠郷が跡を継ぐも後見・振姫と家老・岡重政との間で藩政を巡って対立が激しくなり、結果、父・徳川家康の命により岡重政は切腹となる。
 元和元年(1615年)、家康の命により振姫は和歌山藩主の浅野長晟と再婚することとなり、子を置いて蒲生家を去る。元和2年(1616年)4月に輿入れする。翌年に和歌山に入り、長晟の次男・浅野光晟を産むも、その16日後に死去した。享年38。和歌山吹上寺で火葬され、金戒光明寺に葬られた(後、広島正清寺に改葬)。その報を聞いた蒲生忠郷は会津の融通寺に寺領を寄付して母・振姫の菩提を弔うよう命じている。後に紀州に移封した家康の10男・徳川頼宣は姉にあたる振姫の菩提供養のため、光恩寺(和歌山市大垣内)に墓を建立している。
なお、浅野家は現代まで振姫の子孫が続いているが、蒲生家は息子2人が夭折し無嗣改易、娘の嫁いだ加藤家も改易されている。

 幼名を稲姫、または於小亥と称する。徳川家康の養女(徳川秀忠の養女という説もある)となり、天正14年(1586年、17年あるいは18年の説もある)に真田信之に嫁ぐ。信政,信重,まん(高力忠房室),まさ(佐久間勝宗室)ら2男2女の母。
 上田合戦における真田の軍略に惚れ、彼を恐れた本多忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。それに対して家康は、上田合戦後に面会した信之(当時は信幸)の器量に感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、真田家へ嫁がせることとしたようである。なお、小松姫と信之の孫に当たる松代藩3代藩主真田幸道が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった舅の真田昌幸が居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した。これに対し小松姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と昌幸の申し出を断った。程なく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、孫の顔を見たいという昌幸の所望をかなえた。これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸,信繁父子が九度山に追放になった後も食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
 夫からの信頼は厚く良妻賢母の誉れも高かったが、晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中武蔵鴻巣で亡くなり、夫・信之はと大いに落胆したという。墓は鴻巣市勝願寺,沼田市正覚寺,上田市芳泉寺に分骨されている。また、長野県長野市大英寺に霊廟がある。上田城内には小松姫が用いたとされる駕籠が残されている。

満天姫 松平忠政

 福島正之正室、子に大道寺直秀。のち津軽信枚正室、子に津軽信英。伯父・家康の養女となり、慶長4年(1599年)に福島正則の養嗣子・福島正之(正則の姉の夫・別所重宗の7男)に嫁ぐ。しかし、慶長12年(1607年)、正之が乱行のため幽閉され死去するに至り、正則の判断もあって実家に帰った(その後、義理の兄弟である福島忠勝に嫁ぐ、ともされる)。しかしこのとき満天姫は正之の子を身ごもっており、程なく男児を出産する。
 慶長18年(1613年)、南光坊天海の進言もあり、家康は満天姫を津軽弘前藩主・津軽信枚に再嫁させることにした。だが信枚にはすでに妻がいた。石田三成の3女・辰姫である。信枚の兄・津軽信建が小姓仲間であった石田重成と辰姫を関ヶ原の戦いの後に津軽に匿っていた縁からである。結局、辰姫は関ヶ原の戦いの論功として津軽家が得ていた飛び地領の上州大館村に移されることとなり、満天姫は正室として迎えられた。正之との間にもうけた男児も一緒だった。
 だが信枚は辰姫のことが忘れ得ず、参勤交代の際には必ず大館村の辰姫の居館に立ち寄り、睦み合っていた。その結果ついに辰姫は身ごもり、元和5年(1619年)、男児を出産する。男児は平蔵と名付けられた。信枚は平蔵を自分の跡取りにしたいと満天姫に懇願した。一方満天姫も元和6年(1620年)、男児を出産する。辰姫は元和9年(1623年)に32歳で亡くなったため、上州大館村より平蔵は江戸藩邸に迎え入れられ、信枚の跡取りとして育てられた。この平蔵は、後に信枚の後を次いで弘前藩第3代当主・津軽信義となる。
 満天姫が福島正之との間にもうけた男児は、弘前藩の家老となっていた大道寺直英(後北条氏家臣・大道寺政繁の養子)の養子に出され、大道寺直秀と名乗ることとなった。 また、信枚と満天姫との間に生まれた男児は、後に弘前藩の支藩・黒石藩の祖である津軽信英となる。
 寛永8年(1631年)、信枚が亡くなり、信義が3代藩主となった。以後、満天姫は葉縦院と号するようになる。一方、結局、弘前藩の跡取りになれなかった大道寺直秀は、自らは福島正則の孫であるとして、このときすでに改易され一旗本にまで身分を落としていた福島家の大名家再興を考えるようになり、しきりに活動するようになる。葉縦院は、直秀の活動は幕府の心証を害し、津軽家に災いとなると考え、苦々しく思い、直秀を諫めていた。だが直秀は一向に考えを改めることなく、ついに江戸へ上って幕府に福島家再興を訴えると言い出した。寛永13年(1636年)、江戸に出発するため葉縦院の居所へあいさつにきた直秀は、葉縦院に進められるまま杯をあけると、急に苦しみだし、死んでしまう。毒が盛られていたのである。
 寛永15年(1638年)、葉縦院(満天姫)は弘前で生涯を終えた。長勝寺(弘前市)に霊屋がある。津軽信枚との再婚の際、満天姫は、家康が描かせた「関ヶ原合戦図屏風」を、嫁入り道具として持参したという。この「関ヶ原合戦図屏風」は1996年に国の重要文化財に指定されており、大阪歴史博物館が所蔵している。

 三河生まれで慶長2年(1597年)、菅沼定利の養子となり、菅沼忠政を名乗った。しかし、定利が死去すると養子縁組を解消され、外祖父・家康の養子となって松平姓を許されたため、松平忠政とも呼ばれている。慶長7年(1602年)の父の隠居により、跡を継いで美濃加納藩主となったが、生来からの病弱であったため、父が実権を握って藩政を担った。
 大坂冬の陣への出陣が命じられる直前の慶長19年(1614年)10月1日、俄に腹痛を訴え、翌日2日午の刻(午前12時頃)父に先立って死去した。享年35。跡を幼少の忠隆が継いだ。高野山奥の院に忠政の供養塔が存在する。加納藩は美濃国の諸大名を率いる予定だったが、忠政の死と父・信昌の消沈により弟の亀山藩・忠明が、加納藩の兵や美濃国の諸大名を率いて冬の陣へ参陣した。

松平家治

 天正16年12月24日(1589年2月9日)、駿府の外祖父・家康の養子に望まれたために、親元を離れることとなった。この時、生家の奥平氏では鳥居強右衛門,黒屋甚九郎といった長篠の戦いなどで壮烈な死に様を遂げた忠臣の子弟を亀松丸に付随させた。後の元服に際しては、外祖父の1字と松平姓を拝領する。
 三河軍団の関東移封に伴い、上州長根7000石を拝領する。ところが僅か14歳で早世。嗣子はおらず、別家を興していた家治系は僅か1代目で断絶した。死因は不明。
 生家の奥平家へは新たに養子が望まれたため、末弟の鶴松丸(後の松平忠明)が家康の養子となった。