奥平松平家

TG01:徳川家康  徳川家康 ― 松平忠明 MT59:松平忠明


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松平忠明 松平忠弘

 天正11年(1583年)、徳川氏の重臣・奥平信昌の4男として生まれる。母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。
 天正16年(1588年)、家康の養子となり、松平姓を許された。文禄元年(1592年)に兄の家治が死去したため、その家督を継いで上野長根に7000石を与えられた。慶長4年(1599年)3月11日、叔父の徳川秀忠から「忠」の字を賜り忠明と名乗る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方として参加した。慶長7年(1602年)9月、三河作手藩主となる。
 慶長15年(1610年)7月27日に伊勢亀山藩5万石に加増移封された。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では美濃の諸大名を率いて河内口方面の大将となる。後に休戦協定が豊臣氏との間で結ばれると、家康の命令で大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。慶長20年(1615年)からの大坂夏の陣では、道明寺の戦い,誉田の戦いに加わる。
 戦後、大坂の陣での戦功が考慮され、家康の特命により摂津大坂藩10万石の藩主となり、戦災復興にあたった。戦時の間に中断されていた運河開削が有志によって再開され、完成に至るとこれを賞した。この運河を道頓堀と名付けたのが忠明だと言われている。このほかにも大坂を母体として、その支配機構を制度的に強化する一方、市街地の拡大を積極的に進めた。復興の手腕を高く評価する幕府によって、元和5年(1619年)に大和郡山藩12万石へ加増移封された。なお、郡山藩主時代には短期間ながら、剣術の達人・荒木又右衛門を家臣に取り立てていた。
 寛永9年(1632年)1月30日、大御所・秀忠の遺言で近江彦根藩主・井伊直孝と共に家光の後見人(大政参与)に任じられ、寛永16年(1639年)3月3日には播磨姫路藩18万石に加増移封され西国探題と位置づけられ、江戸幕府の宿老として幕政に重きを成した。寛永21年(1644年)3月25日、江戸藩邸で死去。享年62。後を長男の忠弘が継いだ。
 徳川氏による大坂城再築工事は、松平忠明転封後の元和6年(1620年)より始められ、寛永5年(1628年)頃に完成をみている。これは江戸城と同様、諸国の大名に労働力を軍役として徴発する「天下普請」で行われ、秀吉の大坂城のおよそ2倍の規模をめざした大がかりなものであった。こうした工事が大坂の市街化に拍車をかけたことは想像に難くない。

 大和国郡山藩主・松平忠明の長男として誕生する。寛永21年(1644年)、父の死去により12歳で姫路藩18万石の家督を相続し、直後に弟に3万石を分地する。4年後、年少を理由に山形に転封を命じられるが、のちに宇都宮への転封となる。
 この転封に忠弘の非はなく、宇都宮藩の前任・奥平昌能の家中不祥事である追腹一件・宇都宮興禅寺刃傷事件による。奥平家は忠弘の本家筋に当たり、寛文8年(1668年)に山形藩と入替転封となっている。宇都宮藩では領内の新田検地を行ったが、僅か13年の支配に終わったため、特段する治績はない。天和元年(1681年)に陸奥白河へ移封された。
 宇都宮を経て白河に入封するが、白河藩時代に忠弘の後継者をめぐって家臣団を巻き込む騒動が勃発する。
 長男の鶴千代(長じて主税清照)の他にも3人の男子がいたと言われるが、いずれも夭逝しており、頼みの清照も健康面で不安があった。そこで次女・長福姫の婿の乗守を無理を承知で頼み込み、養嗣子として貰い受けた(忠尚)。だが、忠尚の子・仙千代が夭逝、さらに長福姫もその半年後に死去し、忠尚の存在価値は薄れた。50歳を過ぎた忠弘の跡目が定まらない深刻な事態は、家臣たちにも焦りを生んだ。しかも騒動の決め手となったのは、家督から遠ざけられていた清照に男子・斎宮(後の左膳忠雅)が誕生したことである。おかげで家臣は婿派と孫派に分裂し、白河騒動と呼ばれる対立関係にまで悪化した。家臣が続々と退去し、その総勢が93名に及んだという。
 これが幕府の知るところとなる。忠弘の遠縁でもある老中・大久保忠朝は先んじて忠弘の家臣を呼びつけ、幕閣の正式決定が下る前に忠弘の自主的隠居を勧めている。だが、その後に決定された処分内容は、両派の首魁であった家老両名を遠島流罪、それだけに留まらず所領も召し上げという厳しいものであった。翌月には決定が一部覆された。10万石への減封と山形への国替え処分に軽減されたため、改易の危機だけは免れた。父祖たちの忠勤、加えて神君家康の血統でもあった点が考慮されたものと考えられている。
 騒動の責を重く受け止めて、忠弘は同時に隠居し、家督は孫の斎宮に継がせた。9歳の斎宮には5代将軍・徳川綱吉の拝謁と同時に、忠弘自身の隠居も承認されている。当家においては下総守が当主を示すものでもあるため、隠居後の忠弘は刑部大輔となった。

松平清照 松平忠雅

 奥平松平家の嫡男として生まれたが、病弱を理由に廃嫡となる。以後、将軍家披露もされず、正室も娶らないまま過ごすこととなった。この家に生まれた男子は家祖である祖父・ 忠明以来、「清」の一字を名乗りに用いていた(忠明は初名を清匡といった)。さらにその中で、奥平松平家の家督を継ぐものだけが「忠」の字を冠することとなっていた。そのため、家督を継がせてもらえなかった清照は、「忠」を冠することが許されなかった。
 その清照以外にも弟がいたというが、成人せずに死去したようで、父・忠弘にとっては深刻な問題であった。そこで父は清照たち実息に代わって大給松平家から貰い受けた婿養子を松平忠尚と名乗らせ、後を継がせようとした。ところが、幕府からの了承を取り付けていたものの、忠尚の実息、正室が立て続けに死去し、忠尚の存在価値は著しく低下した。
家運に陰りの見える中、意外にも病弱な清照に長男・左膳(のちの忠雅)が誕生する。そこで、不遇の清照に同情する家臣らは直系たる左膳を後嗣に推したため、家中騒動となった。こうした中、清照は家督相続の決着を見ないまま、失意の中に35歳で没した。 

 天和3年(1683年)9月24日、松平清照の長男として生まれる。病弱であった父・清照に代わって入嗣した叔母婿・松平忠尚を差し置き、忠雅が祖父・松平忠弘の養嗣子として元禄5年(1692年)家督を継いだ。
 元禄13年(1700年)、山形より福山へ移封。そのわずか10年後の宝永7年(1710年)には伊勢桑名藩の松平家初代藩主となる。山形・福山各藩治世はいずれも短期間のため、記録がほとんど残っていないが、桑名の地では忠雅、以降7代が113年に亘って治めた。この間、桑名藩政の改革や桑名藩校進脩館の基礎を築くなど評価は高い。
 延享3年(1746年)6月20日、死去。享年64(満62歳没)。跡を3男の忠刻が継いだ。 

松平忠啓 松平忠功

 延享3年(1746年)12月15日、2代藩主・松平忠刻の次男として江戸浅草の鳥越下屋敷にて誕生。初名は松平清盈。宝暦13年(1763年)1月に長兄・忠泰が早世したため、3月27日に世子に指名され、諱を忠啓に改める(奥平松平家の家督を継ぐものだけが冠する「忠」の字を与えられた)。明和8年(1771年)6月14日、父が病気で隠居したため、家督を継いだ。
 しかし、安永元年(1772年)には桑名城下で火災が起こり、安永2年(1773年)にも大洪水で被害を受け、前者は3000両、後者は5000両の被害を出した。このため藩財政が悪化し、再建のために家臣の半知借上や年貢増徴を行っている。安永5年(1776年)や安永9年(1780年)にも桑名城下で火災が起こり、天明2年(1782年)にも大洪水を受けるなどしている。しかも同年12月には、洪水の被害と重なって年貢増徴に不満を持った百姓一揆までも起こる有様だった。天明4年(1784年)には天明の大飢饉で多数の餓死者を出している。
 天明6年(1786年)12月10日に死去した。享年41。実子は早世していたため、跡を婿養子・忠功が継いだ。

 宝暦6年(1756年)5月21日、御三家紀州藩の第7代藩主・徳川宗将の7男として生まれる。桑名藩第3代藩主・松平忠啓の実子が早世したため、天明3年(1783年)5月2日に婿養子として迎えられた。天明6年(1786年)12月10日に忠啓が死去したため、天明7年(1787年)1月21日に家督を継いで第4代藩主となる。
 当時、江戸幕府では老中の松平定信による寛政の改革が行なわれていたが、忠功もそれに習って寛政3年(1791年)に「御定書」を制定して藩財政再建のために経費節減や生活の簡素化、上意下達の徹底などの藩政改革を行った。しかし、寛政5年(1793年)11月28日、病気を理由に家督を実弟で養子の忠和に譲って隠居し、以後の藩政改革は忠和に受け継がれることとなる。

 

松平忠和 松平忠翼

 宝暦9年(1759年)8月27日、御三家紀州藩の第7代藩主・徳川宗将の9男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。幼少時から部屋住みの身分であったが、このときに松平定信と交遊し、定信は忠和の力量を見抜き、のちに自らの著書で「英雄なり。学問も広く給ひ、天文暦学は殊に勝れてぞ聞ゆれ」と記している。
 桑名藩の第4代藩主で異母兄に当たる松平忠功に実子が無かったため、寛政5年(1793年)9月2日に兄の養子となり、11月28日に兄が病気を理由に隠居したため、家督を継いで第5代藩主となる。藩政では定信の寛政の改革をならって、寛政7年(1795年)11月に家臣の半知借上を行い藩財政再建を目指し、中沢道二らを招聘して学問を奨励している。寛政12年(1800年)には藩法を制定して綱紀の粛正を図った。
 享和2年(1802年)5月10日、死去。享年44(満42歳没)。実子は早世していたため、後を養子の忠翼が継いだ。
 文化人として優れており、著書に『空華集』『遊心公遺文』『瞻寧斎詩稿』『恵礼幾天留記』などがある。 

 越後国与板藩主・井伊直朗の次男として生まれ、桑名藩主・松平忠和の養子となる。享和2年(1802年)、忠和の死去により家督を相続した。
 奥平松平家の家督相続者に望まれた理由の1つとして考えられるのは、血縁である。養父・忠和、その先代(6代目)・忠功は、いずれも紀州徳川家の出身で家祖・松平忠明の血統ではない。だが、忠翼は祖父・井伊直存が奥平松平家から井伊家の養子に出ており、忠翼は奥平松平家3代・松平忠雅の曾孫に当たる。祖父の生家に望まれた形での養子であった。
 文政4年(1821年)に42歳で死去し、その跡は長男の忠堯が継いだ。

 

松平忠誠 松平忠敬

 忍藩の後継として入嗣していた松平忠毅の廃嫡により、新たに養子となった。
 文久3年(1863年)、松平忠国から家督を譲られて藩主となる。水戸藩の天狗党鎮圧、京都警護などで功績を挙げた。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、藩内が新政府に抗戦するか恭順するかで二分したとき、忠誠は藩論を一つにまとめられなかったが、隠居の忠国の登場によって藩論は恭順でまとまり、忠誠は新政府軍に降伏した。明治2年(1869年)、忠国の後を追うように30歳で没した。

 安政2年(1855年)7月14日生まれ。幼名は篤之助。明治2年(1869年)4月、先代藩主の松平忠誠の養嗣子となり、同年6月の忠誠の死去により後を継いだ。同年の版籍奉還で藩知事となり、従五位に叙任する。その後、藩政改革を行うが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移る。明治5年(1872年)にイギリスに留学し、明治17年(1884年)に子爵となる。しかし、旧藩士の不正事件などがあってその地位を追われ、故郷の米沢に戻って中学校教師を務めた。明治28年(1895年)に東京へ戻り、大正8年(1919年)11月15日に65歳で死去した。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺。
松平忠寿

 忍藩最後の藩主・松平忠敬の長男で奥平松平家14代当主。夫人は奥田義人の娘・咲子。藤光曜(真宗出雲路派管主)の妹・都和子と再婚した。
 日露戦争に海軍少尉として出征。海軍大佐まで昇進し、昭和3年(1928年)予備役となる。昭和7年(1932年)貴族院子爵議員に互選され、研究会に属する。昭和10年、忍郷友会名誉会長となる。大東亜戦争の戦災にあった目黒にある邸宅(300坪)を松平農園と命名して、70歳にして東京農業大学聴講生になり野菜作りに精を出した。昭和57年、100歳の天寿を全うした。