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池田利隆 | 池田光政 |
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天正12年(1584年)9月7日、池田輝政の長男として美濃国岐阜に生まれる。母は中川清秀の娘・糸子。母・糸子は、産後、病気保養のため実家に帰り、池田家には戻らないまま、元和元年(1615年)、豊後国岡城で死去した。 |
姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。生母は2代将軍徳川秀忠の養女(榊原康政娘)・鶴姫。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。同18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康はその態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。 |
池田綱政 | 池田軌隆 |
江戸時代前期の名君として著名な池田光政の長男。母は本多忠刻と千姫の娘・勝子。父・光政が30歳のとき、江戸藩邸で誕生した。寛文12年(1672年)に光政の隠居に伴って家督を継いだが、父が存命中は実権を握り、父の死によって自ら藩政に取りかかる。 |
延宝4年(1680年)、岡山で生まれる。多病を理由に嫡子とならなかったが、成人して先述した3男1女の子供も儲けている。綱政は病弱以外の理由で、軌隆を跡継ぎにすることを忌避していたと推測される。綱政は嫡子としていた15男・政順が宝永6年(1709年)に早世した後、17男・継政を後継にしようとしたが、すでに70歳を超えていた綱政が幼い継政を擁立したことに対しては、池田家一門の間で疑問の声が上がった。一族の旗本・池田政森は軌隆を立てるか、支藩鴨方藩主である池田政倚を後見もしくは中継ぎの養嗣子とすることを提案している。政森は軌隆について、病身といわれるが子供も生まれており、それほどの病状ではなく、年齢的にはむしろふさわしいので軌隆を跡継ぎにするのが筋目であるとしている。一方で軌隆の能力や人格には触れておらず、国許には優れた重臣たちがいるのだから多少のことは心配がない、と説いている。 |
池田継政 | 池田治政 |
元禄15年8月17日(1702年)生まれ。宝永元年(1704年)10月、天城池田家の池田由勝の家督を相続し、保教と名乗る。異母兄・吉政(6男)は生まれる前に既に死去、それを受けて嫡男となっていた同母兄・政順(15男)も宝永6年(1709年)に早世したため、実家に戻り後継者に指名された。すでに70歳を超えていた綱政が、成人して子供もいた9男の軌隆を多病として退け続け、幼少の保教を後継者に選んだことに対しては、池田家一族の間で疑問の声が上がった。 |
寛延3年(1750年)1月9日、第4代藩主・池田宗政の長男として生まれる。母は黒田継高の娘・藤子。初名を敏政と名乗る。明和元年(1764年)、父の死去により家督を継ぎ、同年のうちに元服、将軍徳川家治より偏諱を受けて治政に改名する。この当時15歳で、決して幼少というほどの年齢でもないが、初めはまだ存命し隠居中であった祖父の池田継政から政務についてある程度の補佐を受けていたものと思われる。 |
池田斉政 | 池田斉敏 |
安永2年(1773年)4月8日、第5代藩主・池田治政の次男として江戸藩邸で生まれる。庶出の兄・政恭がいたが、正室の子であったことから長男として届出がなされた。寛政2年(1790年)に元服する。寛政6年(1794年)3月8日、父の隠居により跡を継ぎ、第11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の政久から斉政に改名した。 |
文化8年4月8日(1811年5月29日)、薩摩藩主・島津斉興の次男として江戸屋敷で生まれる。生母は斉興の正室・周子(鳥取藩主・池田治道の4女)。初名は島津 久寧。岡山藩第6代藩主・池田斉政の嫡男であった斉輝が文政2年(1819年)に23歳で早世し、その後養子となった甥の斉成も文政9年(1826年)8月に早世したため、同年10月に斉政の養嗣子に迎えられ、池田 為政と名乗る。 |
池田慶政 | 池田茂政 |
文政6年(1823年)、豊前国中津藩主・奥平昌高の10男として中津藩江戸藩邸で誕生した。幼名を七五郎。初名は奥平 昌朝。 |
常陸水戸藩主・徳川斉昭の9男(庶子)として天保10年(1839年)、水戸藩江戸屋敷で生まれた。幼名は九郎麿。のち斉昭より偏諱を授かって昭休と名乗る。嘉永元年8月2日(1849年9月18日)、忍藩主・松平忠国の養子となって忠矩に改名する。嘉永3年9月12日(1851年10月6日)、従四位下・民部大輔に叙任する。同年12月16日、侍従に任官する。安政3年12月16日(1857年1月11日)、溜間詰となる。安政6年11月23日(1859年12月16日)、安政の大獄によって父の斉昭らが処罰を受けると、幕府の顔色を窺った忠国により廃嫡され、水戸徳川家に復籍する。 |
池田章政 | 池田政保 |
鴨方藩主時代は池田政詮と称した。肥後人吉藩第13代藩主・相良頼之の次男として生まれる。幼名は満次郎。母は小川吉五郎の娘・柳子。頼之の祖父の相良長寛は、岡山藩第4代藩主・池田宗政と正室の宝源院(黒田継高の長女)の次男であった。章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。 |
備中国鴨方藩の第10代(最後)の藩主。第9代鴨方藩主で岡山藩の第10代藩主となった池田章政(政詮)の次男。最初の妻は池田慶政の娘、2度目の妻は戸田氏良の娘。養子に池田政鋹(弟・詮政の次男)。幼名は満次郎。 |
池田輝録 | 池田政弼 |
備中生坂藩初代藩主。岡山藩主・池田光政の3男で庶子として誕生した。初名は熊沢政倫。最初は岡山藩の重臣であった熊沢蕃山の養子となり、3000石を領した。後に池田姓に復し、寛文12年(1672年)に父・光政が隠居して兄・綱政が家督を継ぐと、綱政から1万5000石を分与されて、支藩である生坂藩を立藩した。 |
備中国生坂藩2代藩主・池田政晴の3男として誕生。幼名は永次郎。養子に政良と秀次郎(いずれも池田政員の子、届出上は実子であり、それぞれ長男と次男)。明和4年(1767年)、兄で先代藩主の池田政員が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。 |
池田政恭 | |
備中国生坂藩の(2人目の)5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。公式には4代藩主・池田政弼の4男とされたが、実際には岡山藩主・池田治政が側室・瀬川(柏原庸郷の娘)との間にもうけた庶長子である。血統の上では、政弼と治政が共に池田綱政の曾孫という関係にある。正室は溝口直養の娘。 |