<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI13:池田輝政  池田維実 ― 池田奉永 ― 池田奉忠 ― 池田教正 ― 池田信輝 ― 池田輝政 ― 池田利隆 KI14:池田利隆


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池田利隆 池田光政

 天正12年(1584年)9月7日、池田輝政の長男として美濃国岐阜に生まれる。母は中川清秀の娘・糸子。母・糸子は、産後、病気保養のため実家に帰り、池田家には戻らないまま、元和元年(1615年)、豊後国岡城で死去した。
 慶長5年(1600年)、父・輝政とともに上杉景勝征伐に出陣。つづく関ヶ原の戦いに父とともに東軍方で参戦する。
 慶長8年(1603年)2月、異母弟の忠継が備前国岡山藩藩主に任じられると、幼年の忠継に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。利隆は岡山の実質的な領主として藩政を担当し、慶長9年(1604年)には慶長検地と呼ばれる領内検地を実施した。また兵農分離を行い、前岡山領主であった宇喜多秀家や小早川秀秋らの夫役の廃止など、江戸期における近代的体制を確立した。
 慶長10年(1605年)、従四位下侍従に叙任され、右衛門督を兼任した。同年に徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。慶長12年(1607年)6月2日、武蔵守に転任して松平姓を賜り松平武蔵守利隆と名乗った。慶長18年(1613年)1月、父の輝政が死去したため、6月に家督を継いだ。その際に父・輝政の後室で義母・良正院の化粧料である西播磨三郡(宍粟郡・佐用郡・赤穂郡)10万石を弟の忠継に分与し、姫路藩の所領は42万石となった。
 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に与し、大坂冬の陣の緒戦の尼崎合戦に参加した。池田家臣で従兄弟にあたる池田重利は尼崎代官として尼崎城に詰め守りを固めたことから、戦後1万石を賜って大名となった。
 元和2年(1616年)6月13日、義弟にあたる京極高広の京都四条の屋敷で病死した。享年33。墓所は京都妙心寺の護国院,岡山県和意谷池田家墓所,兵庫県姫路市山野井の国清寺。家督は長男の光政が継いだ。 

 姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。生母は2代将軍徳川秀忠の養女(榊原康政娘)・鶴姫。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。同18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康はその態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。
 元和2年(1616年)6月13日に父利隆が死去、翌6月14日に幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の播磨姫路藩主となる。しかし翌元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に減転封となった。
 鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡国は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主の割拠と係争が重なって藩主の思うに任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されても姫路時代の42万石扶持の家臣を召し抱えたままであり、財政難や領地の分配にも苦慮した。そこで家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。
 寛永5年(1628年)1月26日に本多忠刻の娘・勝子を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。寛永9年(1632年)4月3日に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、従弟で忠雄の嫡男・光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である備前岡山を治め難いとし、5月に光政は江戸に召しだされて、6月に備前岡山31万5000石へ移封となり、光仲が因幡鳥取32万5000石に国替えとなった。以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。
 光政は岡山城の鎮守として東照宮を勧請しており、日光東照宮が地方へ分社された全国で最初の例で、他の藩でもこれにならって次々に東照宮の勧請を行い、その数は150社にのぼったと言われている。この東照宮造営は藩主・池田光政の大願であった。
 儒教を信奉し陽明学者熊沢蕃山を招聘した。寛永18年(1641年)、全国初の藩校「花畠教場」を開校した。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として閑谷学校も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用して干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行い、また、産業の振興も奨励した。このため光政は水戸藩主・徳川光圀,会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君と称されている。
 宗教面では、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。当時、金川郡において隆盛を極めていた国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。このため備前法華宗は壊滅している。また、庶民の奢侈を許さず、特に神輿・だんじりなどを用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を認めなかった。だが岡山城下を練り歩く岡山一の祭礼、東照宮御神幸は規模を縮小しながら官民一体となり、毎年9月17日に斎行させた。備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。
年と最期
 寛文12年(1672年)6月11日、光政は藩主の座を嫡男の綱政に譲り隠居した。光政はこのとき、次男の政言に備中の新田1万5000石、3男の輝録に同じく1万5000石を分与した。隠居から4ヵ月半後、母の福正院が死去し、6年後には正室の勝子も死去するという不幸にあったが、光政は隠居ながらも実権は握り続けた。
 天和元年(1681年)10月に岡山に帰国した頃から体調を崩しだした。光政は岡山城西の丸で養生したが、年齢が70を超えていることもあって良くはならなかった。天和2年(1682年)4月、京都から岡玄昌という名医を招聘するも良くはならず、死期を悟った光政は5月1日に寝室に家老ら重臣を呼び出して遺言を伝えた。5月22日、岡山城西の丸で74歳で死去。墓所は岡山県備前市吉永町の和意谷池田家墓所にある。 

池田綱政 池田軌隆

 江戸時代前期の名君として著名な池田光政の長男。母は本多忠刻と千姫の娘・勝子。父・光政が30歳のとき、江戸藩邸で誕生した。寛文12年(1672年)に光政の隠居に伴って家督を継いだが、父が存命中は実権を握り、父の死によって自ら藩政に取りかかる。
 光政の治世により岡山藩は藩政が安定したが、光政の治世末期から綱政が家督を継いだ頃には岡山藩は財政難に見舞われていた。このため、綱政は津田永忠,服部図書らを登用して財政再建に取りかかった。綱政は、財政再建のためには農村再建による新田開発が必要であると考えていた。また、この頃、岡山藩は大洪水などの天災が発生して多難を極めていた。そのため、津田永忠を用いて児島湾に大がかりな干拓を行ない、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なった。この農業政策は成功し、岡山藩は財政が再建されることとなった。
 綱政は造営事業にも熱心で、元禄11年(1698年)には池田氏の菩提寺である曹源寺を創建する。元禄13年(1700年)には、やはり永忠を責任者として現在、日本三名園の一つとして有名な後楽園を造営する。また、曽祖父の輝政が三河国吉田城の城主であった時に信心していた縁で、三河国の行基開基の岩屋観音にも多大な寄進をしている。
 正徳4年(1714年)、77歳で死去。跡を4男の池田継政が継いだ。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺。
 子沢山については、『寛政重修諸家譜』では14人となっており、幕府には少なめに届けたようである。現実には後継者となり得る男子はことごとく早世しており、子女の多さは深刻な後継者問題の現れと考えられる。公式には4男とされる継政も実際には17男とされる。
 綱政は儒学的な学問には興味がなかったが、その他の教養に優れ、特に和歌や書に優れていたという。綱政は公家の衣装で葬ってくれと遺言するほど京文化に憧れを持ち、多くの側室なども京から招いており、武骨な気風を重んじる父・光政とは趣向が異なっていた。これは、光政と綱政の世代が戦国を知っている世代と知らない世代の境目にあるからでもあり、この時代に共通した大名の公家化の事例としている。

 延宝4年(1680年)、岡山で生まれる。多病を理由に嫡子とならなかったが、成人して先述した3男1女の子供も儲けている。綱政は病弱以外の理由で、軌隆を跡継ぎにすることを忌避していたと推測される。綱政は嫡子としていた15男・政順が宝永6年(1709年)に早世した後、17男・継を後継にしようとしたが、すでに70歳を超えていた綱政が幼い継政を擁立したことに対しては、池田家一門の間で疑問の声が上がった。一族の旗本・池田政森は軌隆を立てるか、支藩鴨方藩主である池田政倚を後見もしくは中継ぎの養嗣子とすることを提案している。政森は軌隆について、病身といわれるが子供も生まれており、それほどの病状ではなく、年齢的にはむしろふさわしいので軌隆を跡継ぎにするのが筋目であるとしている。一方で軌隆の能力や人格には触れておらず、国許には優れた重臣たちがいるのだから多少のことは心配がない、と説いている。
 綱政は正徳4年(1714年)に没したが、政森の進言は受け入れられず、綱政の意向のまま継政が跡を継いだ。軌隆はその6年後の享保5年(1720年)3月4日に没した。享年41。
 長男の政晴は生坂藩主・池田輝録の養子となり、その家督を継いだ。次男の輝言と3男の軌明は池田政倚の養子となるも、相次いで廃嫡となり家に戻った。軌明の子孫は岡山藩士となっている。娘の智子は綱政の養女となり、関白・一条兼香に嫁いだ。

池田継政 池田治政

 元禄15年8月17日(1702年)生まれ。宝永元年(1704年)10月、天城池田家の池田由勝の家督を相続し、保教と名乗る。異母兄・吉政(6男)は生まれる前に既に死去、それを受けて嫡男となっていた同母兄・政順(15男)も宝永6年(1709年)に早世したため、実家に戻り後継者に指名された。すでに70歳を超えていた綱政が、成人して子供もいた9男の軌隆を多病として退け続け、幼少の保教を後継者に選んだことに対しては、池田家一族の間で疑問の声が上がった。
 正徳4年(1714年)、父の死去により遺言通り、跡を継いだ。慣例により、将軍(幼少の徳川家継)より偏諱を賜い、池田家通字の「政」と合わせて継政に改名する。正徳5年(1715年)、従四位下、侍従・大炊頭に叙任する。仏教に対して信心が深く、継政は湊山に仏心寺,瓶井山に多宝塔を建立した。領民に対しても善政を敷いた名君であり、享保年間に近隣の諸藩では百姓一揆が頻発して発生したのに対して、岡山藩だけは継政の善政のために一揆が起こらず、平穏を保った。
 正徳3年(1713年)8月18日、伊達吉村の次女・村子と婚約し、享保7年(1722年)4月23日に村子が輿入れする。元文2年(1737年)10月5日、村子と離縁する。幕府や伊達家に事前に一切相談なく離縁したため、幕府の詮議を受けることになる。また、そのため継政の不行跡といった噂も流布された。継政は噂を気にかけ、隠居の意向を示すようになる。しかし、重臣たちは極官である少将に任官していないため、家格の低下を恐れ、継政に隠居を思いとどまらせ、官位昇進運動を推し進めた。なお、継政の離婚により、池田家と伊達家は絶交状態に陥った。天明4年(1784年)にようやく池田家と伊達家は和解した。
 継政は文人としても優れており、絵画や書,能などに才能を現した。特に能楽においては能の舞台図である「諷形図」5巻を著作している。延享元年(1744年)、ようやく左少将に任官する。嫡子・宗政の初官が従四位下侍従にならないことや秋田藩主・佐竹義峯が先に少将任官をすることを危惧していた。宝暦2年(1752年)12月6日、家督を長男の宗政に譲って隠居し、安永5年(1776年)2月8日に岡山にて死去した。享年75。
 隠居中の間、宝暦14年(1764年)に宗政が若くして死去し、孫の治政(当時15歳)が藩主となっており、この補佐にある程度は携わっていたものと思われる。孫の名前を見ての通り、将軍も10代将軍・徳川家治の代になっていた。
 他に、寛保二年江戸洪水があり、西国大名の手伝い普請に参加した。

 寛延3年(1750年)1月9日、第4代藩主・池田宗政の長男として生まれる。母は黒田継高の娘・藤子。初名を敏政と名乗る。明和元年(1764年)、父の死去により家督を継ぎ、同年のうちに元服、将軍徳川家治より偏諱を受けて治政に改名する。この当時15歳で、決して幼少というほどの年齢でもないが、初めはまだ存命し隠居中であった祖父の池田継政から政務についてある程度の補佐を受けていたものと思われる。
 藩主としては有能にして剛毅果断で、老中となった松平定信が寛政の改革で倹約令を出したときにもこれに従わず、放漫財政を展開したという。文人としても優秀で、絵画や俳諧に様々な作品を残している。また、この関係からこの頃には衰退していた閑谷学校を再興している。
 寛政6年(1794年)3月8日、長男の斉政に家督を譲って隠居する。文化4年(1807年)に剃髪して一心斎と号した。文政元年(1818年)12月19日に死去した。享年69。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺。
 治政は老中・松平定信が行なった、倹約や統制を主とした寛政の改革に反対し、豪勢な大名行列を編成して江戸に参勤した。このため、江戸市民は「越中(定信の官位)が越されぬ山が二つある。京で中山(中山愛親)、備前岡山(治政のこと)」という落首を詠んだという。治政は定信失脚後の翌年に45歳で隠居しているが、これは定信の後継者として幕政を主導していた松平信明の報復を受けたためとされている。隠居後は、島津重豪(薩摩藩隠居)や徳川治済(一橋徳川家隠居)らと交流があった。
 天明4年(1784年)、盗賊・田舎小僧新助が岡山藩邸に忍び込んだ際、寝所で寝ていた治政に発見された。治政は家臣も呼ばず、自ら鉄の鞭を振るって追い回し、新助は夜闇に紛れて辛うじて逃げ延びた。翌年に捕えられた新助は、この時ほど慌てたことも恐ろしかったこともないと供述している。 

池田斉政 池田斉敏

 安永2年(1773年)4月8日、第5代藩主・池田治政の次男として江戸藩邸で生まれる。庶出の兄・政恭がいたが、正室の子であったことから長男として届出がなされた。寛政2年(1790年)に元服する。寛政6年(1794年)3月8日、父の隠居により跡を継ぎ、第11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって初名の政久から斉政に改名した。
 父・治政の代の放漫財政を改めて、役職に見合う予算制度の導入や出費の制限など、倹約財政を断行して藩財政の回復を図った。また、文化振興や有能な人材登用などにも努め、藩政をいくらかは再建している。
 文政2年(1819年)、嫡子・斉輝が23歳で早世し、文政3年(1820年)に斉輝の長男・本之丞も5歳で死去した。そのため、弟・政芳の長男・斉成を婿養子に迎えるが、文政9年(1826年)8月に斉成も18歳で死去した。その後、幕府から将軍・家斉の子女を養子に迎えるようにもちかけられるものの、それを断って文政9年(1826年)10月に薩摩藩主・島津斉興の次男・久寧(のち為政,斉敏,鳥取藩・池田治道の孫)を婿養子として迎えた。文政12年(1829年)2月7日、家督を斉敏に譲って隠居する。
 天保4年(1833年)6月26日、岡山城西の丸で死去した。享年61。 

 文化8年4月8日(1811年5月29日)、薩摩藩主・島津斉興の次男として江戸屋敷で生まれる。生母は斉興の正室・周子(鳥取藩主・池田治道の4女)。初名は島津 久寧。岡山藩第6代藩主・池田斉政の嫡男であった斉輝が文政2年(1819年)に23歳で早世し、その後養子となった甥の斉成も文政9年(1826年)8月に早世したため、同年10月に斉政の養嗣子に迎えられ、池田 為政と名乗る。
 文政12年2月7日(1829年3月11日)、斉政の隠居により家督を継いだ。将軍徳川家斉の偏諱を受け斉敏(「敏」は養祖父池田敏政の1字)に改名した。
 周代の井田法に倣い、後楽園内に井田を縮尺再現するなどし、民政に尽力した。嗣子のいなかった斉敏は、大叔父にあたる奥平昌高の10男・七五郎(後の慶政)を仮養子として、天保13年1月30日(1842年3月11日)に岡山において死去した。享年32。七五郎は斉敏と異なり、それまでの池田家一族とは直接の血縁関係がなかったため、支藩の鴨方藩主・池田政善の娘・宇多子を斉敏の養女とし、婿養子として七五郎を迎える手順をとった。この手続きを完了するまで斉敏の死亡は隠されており、4月2日にようやく喪が発せられた。
 斉敏の一周忌に、同母兄の島津斉彬は追悼文を送ったという。
 斉敏は岡山城大手門の前に店を構えた伊部屋の酒饅頭をたいそう好み、茶会の席に伊部屋の饅頭を出すよう命じていた。その後、この饅頭に「大手まんぢゅう」の名を与えている。今も「大手まんぢゅう」は岡山銘菓の定番として親しまれている。 

池田慶政 池田茂政

 文政6年(1823年)、豊前国中津藩主・奥平昌高の10男として中津藩江戸藩邸で誕生した。幼名を七五郎。初名は奥平 昌朝。
 岡山藩7代藩主の池田斉敏は、文政12年(1829年)に6代藩主・斉政の隠居により家督を継ぐと、同年にまず、奥平昌高の5男の勇吉(奥平昌猷)を仮養子に指名した。しかし、勇吉は兄(次男)奥平昌暢の早世により天保4年(1833年)に奥平家を継いだため、斉敏は代わってその弟の七五郎を仮養子に指名するようになった。七五郎兄弟の父である奥平昌高と斉敏は、共に薩摩藩島津家の出身で、血縁上は斉敏が七五郎らの従甥にあたるが、年齢は斉敏が勇吉より2歳、七五郎より12歳年上である。当時は池田家の血筋で適齢の後継候補がいなかったため、斉敏の生家である島津家の縁戚から彼らを仮養子に選ぶことになった。
 天保13年(1842年)1月30日、斉敏は国許の岡山で急死した。すでに仮養子に指名されていた七五郎が家督を継ぐこととなったが、元来、池田家と直接の縁がなかった七五郎の相続に当たり、池田家の血筋を重んじた池田家家中は、斉敏の死を秘匿し重病を装って時間を稼ぎ、支藩鴨方藩主・池田政善の娘の宇多子を斉敏の養女とし、七五郎に娶わせて婿養子の形で池田家へ迎えることとした。これを斉敏の名で願い出て幕府に認められたのち、斉敏は4月2日に死去したものとして幕府に届け出された。同年5月29日、七五郎は幕府から正式に家督相続を認められた。池田家に入った七五郎は、初め諱を道政とし、のち12代将軍・徳川家慶より偏諱を授かり慶政に改名した。
 嘉永6年(1853年)、ペリー来航で幕府に対策を諮問された際、慶政は「鎖国の祖法をあくまで厳守すべきだ」と主張した。その一方で、幕命に従って藩士を房総半島などに派遣し、海防に当たらせている。
 また、塩や砂糖の専売強化や質素倹約令などによる財政政策,洋式軍制の導入などを行ったが、あまりに厳しすぎる改革を行った上、改革途上で部落差別問題などが起こったため、安政3年(1856年)に藩内で渋染一揆が発生し、加えて強い締め付けの影響で同年中に銀札(藩札)が札潰れ(発行停止)となり、改革は失敗に終わった。このため、勘定方や銀札方に属していた藩士にしわ寄せが来たと言われる。
 文久3年(1863年)、病気を理由に家督を水戸藩主・徳川斉昭の9男であり養嗣子としていた茂政に譲って隠居した。これは、尊王派であった藩士・江見陽之進の進言に従ってのことである。晩年は岡山に隠棲し、明治26年(1893年)に71歳で死去した。墓地は備前市の和意谷池田家墓所。 

 常陸水戸藩主・徳川斉昭の9男(庶子)として天保10年(1839年)、水戸藩江戸屋敷で生まれた。幼名は九郎麿。のち斉昭より偏諱を授かって昭休と名乗る。嘉永元年8月2日(1849年9月18日)、忍藩主・松平忠国の養子となって忠矩に改名する。嘉永3年9月12日(1851年10月6日)、従四位下・民部大輔に叙任する。同年12月16日、侍従に任官する。安政3年12月16日(1857年1月11日)、溜間詰となる。安政6年11月23日(1859年12月16日)、安政の大獄によって父の斉昭らが処罰を受けると、幕府の顔色を窺った忠国により廃嫡され、水戸徳川家に復籍する。
 文久3年2月6日(1863年3月24日)、岡山藩主・池田慶政の婿養子となり、池田修政と名乗る。同年2月8日、慶政の隠居により家督を継いだ。これは当時の岡山藩で、尊皇攘夷かただの尊皇を行うかで藩論がまとまらなかったため、慶政が藩士の江見陽之進の進言を容れて、尊攘派の盟主的な存在であった斉昭の子を家督に就けることにより藩論をまとめようとしたためといわれる。藩主就任時に14代将軍・徳川家茂の偏諱を授かって、諱を茂政に改める。
 藩主就任後は、父の斉昭の影響を受けて尊王攘夷を主張し、藩論を主導するとともに、兄の鳥取藩主・池田慶徳とともに朝幕間を周旋した。立場としては、尊王攘夷の貫徹であり、また「天皇優位の公武合体」の実現ということを望んでいた。そのため、将軍が朝意を奉じて攘夷を実行することを望み、文久3年8月、茂政は池田慶徳,米沢藩主・上杉斉憲,徳島藩世子・蜂須賀茂韶とともに参内して、当時、真木和泉らが計画していた攘夷親征を中止すべきだと奏上した。
 一方で、長州藩に対しては友好的であり、八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊攘派が京都から追放された際には、朝廷に対し長州藩への寛仁の処置を懇願している。また、元治元年2月にも、朝廷に毛利敬親・広封父子の寛宥の沙汰を要望し、幕府に対しては攘夷の奉勅を勧告した。だが、こうした長州周旋に対し、幕府から、岡山藩は長州藩と手を結んで幕府に対抗しようとしているのではないかという嫌疑を受けることとなった。かかる嫌疑の中で、茂政は長州藩の違勅の暴挙には反対し勧告したが、この態度を藩内の過激尊攘派から因循と論難されることもあった。
 禁門の変後、茂政の長州に対する態度は変わり、周旋を断るに至った。第一次長州征討に際して茂政は長州藩への寛仁の処置を主張したが、勅命遵守の立場から、名目的に一宮付近まで出馬し、家老・池田出羽を広島まで派遣するにとどめた。第二次長州征討では、家臣の多くは出兵に反対し、茂政も同様であったが、結局、違勅の名を恐れ渋々備後路まで出兵することになった。
 慶応3年10月15日(1867年11月10日)、大政奉還にともない、朝廷から元尾張藩主の徳川慶勝らとともに上洛することを命じられる。王政復古の大号令後の慶応4年(1868年)、15代将軍だった兄の徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられる。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加わらず、3月15日に朝廷に対して病を理由に隠退・養子届けを出し、家督を鴨方藩主であった養嗣子の章政に譲って隠居する。
 維新後は弾正大弼に任じられ、能楽の復興に努めた。明治32年(1899年)、61歳で死去した。墓所は備前市和意谷池田家墓所。

池田章政 池田政保

 鴨方藩主時代は池田政詮と称した。肥後人吉藩第13代藩主・相良頼之の次男として生まれる。幼名は満次郎。母は小川吉五郎の娘・柳子。頼之の祖父の相良長寛は、岡山藩第4代藩主・池田宗政と正室の宝源院(黒田継高の長女)の次男であった。章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。
 岡山藩池田家は早くから満次郎の血筋に着目しており、第8代藩主の池田慶政は、天保13年(1842年)に婿養子として池田家を継ぐと、満次郎を仮養子に指名することを強く望んだ。相良家では、頼之が満次郎の誕生後に隠居して長男の長福に家督を譲っていたが、満次郎は当主の長福に継ぐ大事な控えの立場であったため、この時は池田家の申し入れに応じなかった。その後、満次郎が鴨方藩池田家の養子に入る弘化4年(1847年)までの間に同母弟の元三郎(相良頼基)が出生しており、元三郎はのちに長福の跡を継いで最後の人吉藩主となった。
 章政の正室の鑑子は美濃大垣藩主・戸田氏正の娘で、母・親姫は薩摩藩主・島津重豪の娘である。そのため鑑子は、同じく重豪の孫である池田慶政の従妹、重豪の曾孫である慶政の先代(第7代藩主)池田斉敏の従叔母にあたる。
 弘化4年(1847年)3月5日、鴨方藩の第8代藩主・池田政善の末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、末期養子として家督を相続した。嘉永2年12月(1850年)、従五位下・内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。
 慶応4年(1868年)3月15日、章政は宗家の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府から実兄の徳川慶喜追討の命令を受けたのに対し、自らは隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与し、藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。
 明治維新後は議定,刑法官副知事,刑法官知事などを経て、明治2年(1869年)の版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官となり、東京へ移った。
 明治17年(1884年)に侯爵に列せられ、同36年(1903年)に従一位となったが、同年6月5日に満68歳で死去した。家督は次男の詮政が相続した。 

 備中国鴨方藩の第10代(最後)の藩主。第9代鴨方藩主で岡山藩の第10代藩主となった池田章政(政詮)の次男。最初の妻は池田慶政の娘、2度目の妻は戸田氏良の娘。養子に池田政鋹(弟・詮政の次男)。幼名は満次郎。
 慶応4年(1868年)3月15日、父・章政が宗家の岡山藩主を継承したため、その跡を受けて幼くして鴨方藩主となる。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官され、9月に東京へ移った。明治17年(1884年)7月には華族令により子爵となる。昭和14年(1939年)2月10日、満74歳で死去した。

池田輝録 池田政弼

 備中生坂藩初代藩主。岡山藩主・池田光政の3男で庶子として誕生した。初名は熊沢政倫。最初は岡山藩の重臣であった熊沢蕃山の養子となり、3000石を領した。後に池田姓に復し、寛文12年(1672年)に父・光政が隠居して兄・綱政が家督を継ぐと、綱政から1万5000石を分与されて、支藩である生坂藩を立藩した。
 藩政においては名君で有名だった父に劣らず、文武両道の名君として家臣を大切にし、民政に尽くしたと高く評価されている。一方、生坂藩の藩庁が置かれた東雲院の記録によると、輝録が儒教を擁護したため、生坂の寺の住職、神社の神主らの多くが迫害を受けて、同地を出て行かざるを得なくなった。そして東雲院の住職は迫害に耐え、3年後に許されたと云われる。
 元禄15年(1702年)から正徳3年(1713年)7月まで奏者番を勤め、同年11月26日に65歳で死去した。男子はすべて早世したため、養嗣子の政晴(綱政の孫)が跡を継いだ。

 備中国生坂藩2代藩主・池田政晴の3男として誕生。幼名は永次郎。養子に政良と秀次郎(いずれも池田政員の子、届出上は実子であり、それぞれ長男と次男)。明和4年(1767年)、兄で先代藩主の池田政員が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。
 安永5年(1776年)7月25日、35歳で死去した。ただし、幕府には4日後の7月29日死去として届出された。前年に生まれたばかりの正室との息子の政房が跡を継いだが、翌安永6年(1777年)に夭逝したため、宗家の岡山藩主池田治政の庶長子で、幕府に出生の届出が未提出であった鉄三郎が密かに岡山から江戸まで迎えられ、身代わりに立てられて政房を名乗り、のち政恭と名を改めた。 

池田政恭

 備中国生坂藩の(2人目の)5代藩主。家督相続の翌年に夭逝した池田政房の身代わりで擁立されたが、公式には同一人物とされた。公式には4代藩主・池田政弼の4男とされたが、実際には岡山藩主・池田治政が側室・瀬川(柏原庸郷の娘)との間にもうけた庶長子である。血統の上では、政弼と治政が共に池田綱政の曾孫という関係にある。正室は溝口直養の娘。
 池田家の史料である「池田氏系譜」によると、安永元年(1772年)10月11日、岡山において池田治政の長男として生まれた。治政の正室・米姫は当時懐妊中で、翌安永2年(1773年)に次男の斉政が生まれ、嫡男として幕府に届出された。安永4年(1775年)には3男の政芳が米姫の子として生まれ、届出されたが、政恭は公式には届出がなされないまま、国元の岡山で養育された。
 生坂池田家で安永5年(1776年)7月25日に政弼が死去した際、既に嫡男として届出済であった政弼の次男(公式には4男)の永次郎(池田政房)が満1歳で跡を継いだ。しかし、永次郎は翌安永6年(1777年)3月11日に江戸藩邸にて夭逝した。そこで年齢が近く、幕府にいまだ出生の届出がなかった池田宗家の庶子・鉄三郎が江戸へ呼び寄せられ、密かに身代わりに立てられて永次郎政房を名乗った。安永8年(1779年)に通称を初之進、諱を政恭に改めたが、本来の政房の身代わりのため、幕府の公式記録では実際より3歳年少の安永4年生まれとされている。寛政2年(1790年)に11代将軍・徳川家斉に初御目見し、従五位下・山城守に叙任される。翌寛政3年(1791年)に岡山へ帰国する(生坂藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住した)。
 文政5年(1822年)11月21日、長男の政範に家督を譲って隠居し、文政10年(1827年)7月晦日に死去した。