KI11:池田信輝 | 池田維実 ― 池田奉永 ― 池田奉忠 ― 池田教正 ― 池田信輝 ― 池田之助 | KI12:池田之助 | ● |
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池田之助 | 池田由之 |
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幼少より織田信長に仕えた。史料に初めて登場するのは天正6年(1578年)12月の有岡城攻めで、父・恒興と共に倉橋郷の砦に入った。 |
天正5年(1577年)、池田元助(之助)の嫡男として尾張国犬山で誕生した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父は祖父・池田恒興と共に、徳川家康率いる軍勢の襲撃を受けて討死した。由之は8歳の幼子であったため、父の弟である池田輝政が家督を継いだ。
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池田由成 | 池田政純 |
慶長10年(1605年)池田家家老・池田由之の子として生まれる。元和元年(1615年)、幕府の証人として江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川秀忠に拝謁する。元和4年(1618年)に父・由之が殺害されると、かわりに米子城3万2,000石と「出羽」の名を相続して、池田光政に家老として仕えた。 |
宝永3年(1706年)、池田綱政の末男として岡山で誕生した。母は幸品(栄光院)。宝永6年(1709年)、池田武憲の名跡を再興するも、同年に藩主世子の同母兄・政順が死去し、天城池田家を継いでいた同母兄・保教(継政)が実家に戻り藩主世子となったため、翌宝永7年(1710年)、代わって天城池田家の家督を相続した。 |
池田政徳 | 池田熊子 |
寛政11年(1799年)6月16日、備中国生坂藩の第5代藩主・池田政恭の3男として生まれる。父の政恭は、岡山藩第5代藩主・池田治政の庶長子で、第6代藩主・斉政の実兄であるが、支藩生坂藩藩・主政房が夭折し、無継嗣による改易を防ぐためその身代わりとなって生坂池田家を相続した。つまり政徳は、藩主斉政の甥にあたる。 |
赤穂事件で知られる大石良雄の生母。熊とだけ記す書も多い(文献により他にも「くま」「クマ」「玖麻」などとある)。 |
池田由英(蜂須賀玄寅) | 三尾正長 |
慶長12年(1607年)、播磨姫路藩家老・池田由之(天城池田家)の子として姫路にて誕生。母は蜂須賀家政の長女・即心院。妻は近江三井寺山内円満院坊官の西坊胤清印の長女の亀。 |
承応3年(1654年)、近江大津上大門町の西坊家屋敷で秘かに誕生する。寛文4年(1664年)、父の玄寅と対面し、三尾氏と称す。寛文6年(1666年)8月には義兄の興龍とも対面し、寛文10年(1670年)に阿波で元服した。延宝2年(1674年)10月15日、薙髪して豁悟と号す。 |
池田興龍(蜂須賀隆矩) | |
2代藩主・蜂須賀忠英の4男。母は高田勝左衛門正治の娘。正室は紀州藩士・松平宣助の娘お七。初名は興龍。鎮辰,隆矩と改名した。 |