<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI11:池田信輝  池田維実 ― 池田奉永 ― 池田奉忠 ― 池田教正 ― 池田信輝 ― 池田之助 KI12:池田之助


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池田之助 池田由之

 幼少より織田信長に仕えた。史料に初めて登場するのは天正6年(1578年)12月の有岡城攻めで、父・恒興と共に倉橋郷の砦に入った。
 天正8年(1580年)の荒木村重討伐では父や弟の輝政と共に活躍し、花隈城の戦いで荒木元清を破り、信長からその功績を賞賛されて名馬を賜った。
 天正9年(1581年)2月28日、父の名代として輝政と共に馬揃えに摂州衆として参加。以後、父を離れて単独で活動するようになり、池田氏の大将として振る舞う。
 同年11月、信長は羽柴秀吉と元助に淡路国侵攻を命じた。元助は岩屋城を包囲し、由良城(由良古城)に籠城する安宅清康のもとに、家臣・伊木忠次と秀吉の腹心・蜂須賀正勝を送って投降を説得し、信長の許可を得たので、淡路勢は降伏して諸城は開城した。元助は清康を従えて安土城に伺候し、所領安堵の許しを得て淡路に帰還した。秀吉撤退後も池田勢が淡路に駐屯した。
 天正10年(1582年)、明智光秀の与力衆の1つとして甲州征伐に出征した。続く中国遠征でも明智与力として準備を命じられていたが、6月2日にその光秀が謀反を起こして、本能寺の変で信長が横死する。6月11日、中国大返しで姫路城に戻った秀吉と会した父・恒興は、次男・輝政も秀吉の養子にするという約束をして会盟した。さらに父は剃髪して勝入と号し、これに従って元助は紀伊守の称を継承した。共に秀吉に従って山崎の戦いで明智光秀を破った。
 清洲会議により、父は大坂・尼崎・兵庫の12万石を与えられたため、父が大坂に移って、代わりに元助が伊丹城に入り、弟・輝政が尼崎城に入った。
 織田家の内紛でも父に従い、織田信雄に属して秀吉の味方となって、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦。父が美濃大垣城主となると、岐阜城主となった。秀吉と信雄の関係が悪化すると、今度は秀吉側につき、天正12年(1584年)、長久手の戦いで三河を奇襲する部隊の一翼を担ったが、4月9日、徳川家康,井伊直政,織田信雄らが率いる軍の要撃を受けて、父や義弟の森長可共々討死した。戦死の地と伝わる場所には「庄九郎塚」が建てられている。元助は享年26とされるが、『信長公記』では、天正8年(1580年)時点の記述で「元助、照政(輝政)兄弟、共に年齢15、16」とあり、兄弟の年齢差はあまり開いておらず、元助の没年齢は実際には20代前半であった可能性もある。 

 天正5年(1577年)、池田元助(之助)の嫡男として尾張国犬山で誕生した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父は祖父・池田恒興と共に、徳川家康率いる軍勢の襲撃を受けて討死した。由之は8歳の幼子であったため、父の弟である池田輝政が家督を継いだ。
 天正17年(1589年)、知行5千石。天正19年(1591年)、三河国吉田で5千石を加増された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに従軍。慶長6年(1601年)、播磨国に移り、佐用郡で2万2千石を与えられ、平福に陣屋を構えた。由之は利神城を改修した。慶長12年(1607年)に駿河御普請役を勤めた際に、徳川家康から馬を拝領している。慶長14年(1609年)、備前国児島郡の下津井城に移り、3万2千石を領した。この頃、名を出羽と改める。慶長17年(1612年)2月5日、正室の万が岡山で死去した。享年20。
 慶長18年(1613年)に叔父の輝政が死去し、その嫡男の利隆が家督を継ぐと、由之は下津井から播磨国明石城へ移る。利隆が元和2年(1616年)に死去すると、家督を継いだ光政は、元和3年(1617年)、幼少を理由に因幡国鳥取藩へ転封となる。これに伴い由之も明石城から米子城へと移った。
 この頃の池田家中では筆頭家老の伊木忠繁ら要職にある人物も死去しており、由之は幼君の光政を補佐したが、元和4年(1618年)、大小姓・神戸平兵衛の恨みをかい、江戸から米子へ戻る途中、刺殺された。享年42。家督は嫡男の由成が相続した。

 

池田由成 池田政純

 慶長10年(1605年)池田家家老・池田由之の子として生まれる。元和元年(1615年)、幕府の証人として江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川秀忠に拝謁する。元和4年(1618年)に父・由之が殺害されると、かわりに米子城3万2,000石と「出羽」の名を相続して、池田光政に家老として仕えた。
 元和9年(1623年)7月、藩主・光政が将軍・家光に従い上洛した際に供をする。寛永5年(1628年)、藩主・光政と大御所・秀忠の養女・勝子(本多忠刻の娘)の婚礼の際に御礼使として江戸に下り、江戸城で将軍・家光に拝謁する。寛永9年(1632年)には藩主・光政が因幡鳥取藩から備前岡山藩へと移封されたため、由成も備前国下津井城主に転じた。その後、一国一城令でこの城が破却されたので、天城に陣屋を設けてそこに移った。慶安2年(1650年)、藩主・光政の娘・輝子と一条教輔の婚礼のため上京する。
 寛文8年(1668年)7月1日に隠居して3男の由孝に跡を譲った。門閥家老として津田永忠等と対立し、光政に疎まれ隠居を命じられたためである。その後は天城で余生を送る。延宝4年(1676年)1月8日に死去。享年72。墓所は天城池田家墓所(岡山県倉敷市)。

 宝永3年(1706年)、池田綱政の末男として岡山で誕生した。母は幸品(栄光院)。宝永6年(1709年)、池田武憲の名跡を再興するも、同年に藩主世子の同母兄・政順が死去し、天城池田家を継いでいた同母兄・保教(継政)が実家に戻り藩主世子となったため、翌宝永7年(1710年)、代わって天城池田家の家督を相続した。
 正徳5年(1715年)4月、母・栄光院とともに幕府の証人となる。享保5年(1720年)9月、許されて国許に戻り、分家並の待遇を受ける。元文2年(1737年)、継政が正室村子(伊達吉村次女)と離婚した際に、伊達家側から幕府に、池田家内で家老たちが不行跡の藩主継政を押込め、その嫡子・宗政(村子の子)を毒殺し、継政の同母弟・政純を藩主に立てようと図っているとの風聞が伝えられている。
 明和3年(1766年)5月24日没。享年61。妻の豊子も政純のあとを追うように5月26日に死去した。嫡子・政辰は先立って没していたため、娘・唯子の夫・.政喬(継政の次男)が政純の養子となり、家督相続した。墓所は天城池田家墓所。
 兄・継政(俳号雪扇子)と同じく、和歌や俳句を好み、俳号を琴調と名乗った。 

池田政徳 池田熊子

 寛政11年(1799年)6月16日、備中国生坂藩の第5代藩主・池田政恭の3男として生まれる。父の政恭は、岡山藩第5代藩主・池田治政の庶長子で、第6代藩主・斉政の実兄であるが、支藩生坂藩藩・主政房が夭折し、無継嗣による改易を防ぐためその身代わりとなって生坂池田家を相続した。つまり政徳は、藩主斉政の甥にあたる。
 文化8年(1811年)、天城池田家第8代当主・政孝の婿養子となる。文化14年(1817年)、養父・政孝の死去により天城領3万石を相続、名を出雲と改める。
 文政3年(1820年)10月、御仕置助となり、文政4年(1821年)5月、仕置家老となる。文政7年(1824年)11月、幕府より備前児島洲の開墾を賞され、その責任者として時服を賜る。天保10年(1839年)、昌平黌出身の儒学者・鴨井熊山を招いて領内の学問所の教授とする。天保13年(1842年)1月30日、岡山で藩主・斉敏が継嗣無きまま急死したため、2月、江戸に出府して江戸藩邸の対応にあたる。斉敏の死去を伏せたまま、中津藩から慶政が養子として迎えられ新藩主となった。
 弘化2年(1845年)没。家督は長男の政昭が相続。墓所は天城池田家墓所。

 赤穂事件で知られる大石良雄の生母。熊とだけ記す書も多い(文献により他にも「くま」「クマ」「玖麻」などとある)。
 備前国岡山藩の家老・池田由成の6女。明暦3年(1657年)10月4日に赤穂藩浅野氏永代家老家である大石家の嫡男・大石良昭と婚約、万治元年(1658年)2月20日に正式に結婚した。良昭との間に、万治2年(1659年)に長男・大石内蔵助良雄、万治3年(1660年)に次男・専貞、寛文11年(1671年)に3男・大石良房を生んだ。
 元禄4年(1691年)3月14日に死去。享年55。京都の聖光寺に葬られた。

池田由英(蜂須賀玄寅) 三尾正長

 慶長12年(1607年)、播磨姫路藩家老・池田由之(天城池田家)の子として姫路にて誕生。母は蜂須賀家政の長女・即心院。妻は近江三井寺山内円満院坊官の西坊胤清印の長女の亀。
 寛永3年(1626年)、外祖父の家政に招かれて、阿波徳島藩主・蜂須賀忠英を補佐し家老となる。池田内膳由英と名乗っていたが、後に蜂須賀姓を許され、蜂須賀山城玄寅と名乗る。
 寛永5年(1628年)、知行5000石。寛永14年(1637年)より起きた島原の乱の際に、藩船の運用について藩主・忠英に進言したところ、江戸幕府3代将軍・徳川家光の上聞に達し賞賛された。乱の後、寛永15年(1638年)、5000石加増される。
 寛永19年(1642年)、藩主・忠英の4男・興龍(のちに隆矩)を養子とし、万治元年(1658年)には家督を譲って、京に隠棲して斉藤不白と号した。一方、承応3年(1654年)に実子・正長が近江大津上大門町の西坊家屋敷にて秘かに誕生する。寛文4年(1664年)、正長と対面し三尾氏を名乗らせている。
 延宝2年(1674年)10月10日、京都で死去。享年68。
 なお、興龍の嫡男である龍之(のちに綱矩)が蜂須賀宗家を継いで徳島藩主になったことに伴い、興龍は池田家と離縁して公族(藩主一門)に戻ったため、玄寅の家系(蜂須賀山城家)は正長の子孫が継ぐことになった。

 承応3年(1654年)、近江大津上大門町の西坊家屋敷で秘かに誕生する。寛文4年(1664年)、父の玄寅と対面し、三尾氏と称す。寛文6年(1666年)8月には義兄の興龍とも対面し、寛文10年(1670年)に阿波で元服した。延宝2年(1674年)10月15日、薙髪して豁悟と号す。
 延宝6年(1678年)4月、義兄の興龍が家老を辞任。池田家を離籍し、公族(藩主一門)に戻る。同年、興龍の嫡男の龍之が4代藩主・蜂須賀綱通の養子になり、5代藩主・蜂須賀綱矩となる。元禄11年(1698年)、子の長亮が中老格となる。
 赤穂事件の中心人物・赤穂藩浅野家家老の大石内蔵助は、正長の従姉の池田熊子の子にあたり、この頃に藩が改易され浪人していた内蔵助に対し、正長は資金援助をしている。内蔵助は正長に、吉良邸への討入前日12月13日付で手紙を書いている。永遠の別れを告げる「いとま乞い状」と呼ばれるものである。
 元禄16年(1703年)に近江滋賀郡錦織村字御所平に信天舎を構え、茅堂一宇を「藤の堂」と号し隠棲する。
 正徳3年(1713年)10月10日に死去。藤の堂に葬られ、後に大津市の新光寺へ母の亀の墓と共に改葬された。

池田興龍(蜂須賀隆矩)

 2代藩主・蜂須賀忠英の4男。母は高田勝左衛門正治の娘。正室は紀州藩士・松平宣助の娘お七。初名は興龍。鎮辰,隆矩と改名した。
 寛永19年(1642年)9月、家老・蜂須賀山城玄寅(池田由英)の養子となる。万治元年(1658年)、家督相続する。寛文7年(1667年)2月、仕置家老となる。延宝2年(1674年)3月、病のために仕置家老を辞任する。延宝4年(1676年)正月、再び仕置家老となり禄高5000石、蔵人と名を改める。延宝6年(1678年)4月、家老を辞任、池田家を離籍し公族(藩主一門)となる。同年、嫡男の龍之(蜂須賀綱矩)が4代藩主・綱通の養子として藩主となる。元禄7年12月14日没。享年54。