<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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池田信輝(恒興) 池田長吉

 天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として尾張国で誕生。父の恒利は早くに死去したとされる。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。
 幼少の頃から信長の小姓として織田氏に仕えた。弘治3年(1557年)、信長の弟で謀反を企てた信勝を殺害した。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い,美濃攻略などで戦う。元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた。以後も比叡山焼き討ち,長島一向一揆,槙島城の戦いなどに参陣。天正2年(1574年)には武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして、東濃の小里城に入った。恒興はそのまま織田信忠の付属であったが、天正6年(1578年)11月、有岡城の戦いに従軍。天正8年(1580年)7月、摂津国尼崎城・花隈城(花熊城)を落とす。戦後、伊丹城を与えられた。また、同年6月、荒木村重の配下だった中西新八郎らを与力とした。
 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命じられた。同年5月、備中高松城を攻撃中の秀吉の援軍に向かうことを命じられた。同年6月2日、本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれる。6月11日、中国攻めから引き返して尼崎に到着した羽柴秀吉と合流し、このとき、豊臣秀次を恒興の婿に、次男輝政(照政)を秀吉の養子とすることを約束した。また、剃髪し、勝入と号した。山崎の戦いでは兵5,000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。
 織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立した。領地の再分配では摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を獲得。恒興は大坂に移り、元助は伊丹に、照政は尼崎に入った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、同年5月、美濃国内にて織田信孝の旧領13万石を拝領し大垣城に入った。
 天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが、結局は秀吉方として参戦した。勝利が成った暁には尾張一国を約束されていたという。緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉,森長可,堀秀政と共に家康の本拠三河国に向かった。4月9日、岩崎城を攻撃。その後、家康軍と衝突し、元助,長可と共に戦死した。恒興は永井直勝に討ち取られた。享年49。遺体は徳川勢に持ち帰られ、一時遠江国新居に葬られた。後に京都妙心寺の慈雲院に改葬されている。

 長吉流池田家初代当主で、因幡鳥取藩初代藩主。元亀元年(1570年)、池田恒興の3男として尾張国犬山城で生まれた。天正9年(1581年)、12歳の時に羽柴秀吉の養子(猶子)となり、羽柴姓を許されて羽柴藤三郎を称する。この時、澤潟の紋付を授かった。
 天正12年(1584年)、長久手の戦いに池田勢として出陣して、勝利の暁には秀吉より稲葉郡を恩賞として与えるとの約束されていたが、4月9日に池田勢は大敗して、父・恒興と長兄・元助,義兄・森長可が戦死し、この時に長吉も傷を負った。
 天正15年(1587年)の九州の役に従軍し、後備で400人を率いた。天正18年(1590年)の小田原の役にも従軍して、本陣に列して400騎を率いた。文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前国名護屋城に秀吉の旗本衆の1つとして400人を率いて在陣し、途中より朝鮮渡海の舟奉行を務めて、その功で名馬・大般若を賜る。
 慶長5年(1600年)7月、徳川家康の会津征伐に兄・輝政と共に参陣し、石田三成の挙兵により関ヶ原の役が始まると、小山評定で兄の部隊の一部として先手衆に加えられた。8月22日,23日、東軍諸将と美濃国岐阜城攻めに参加。新加納川を渡って城兵と戦い、飯沼長資を自ら討ち取った。15日の本戦の後、27日に近江国水口岡山城攻めを命じられると、長束正家・直吉兄弟を9月30日に助命すると欺いて開城させて誘い出し、10月3日に切腹させるという戦功を挙げた。
 論功行賞で、水口城攻略の褒美として正家の財貨はことごとく長吉に与えられた。同じく、11月、因幡国4郡(邑美郡・法美郡・巨濃郡・八上郡)6万石と鳥取城を与えられて、鳥取藩に移封され、この時に池田姓に復した。
 慶長7年(1602年)、関ヶ原役の因幡での戦闘の際に赤松広通によって鳥取城下が焼き払われていたため、長吉は入府と共に本城と城下町の再建を始めて、4,5年をかけて完成させた。久松山麓の城郭の大部分は長吉の時代に造られたものである。また千代川河口の港である賀露が隣国の亀井茲矩の領内にあったが、鳥取の発展に不可欠ということで、領内の八上郡袋河原と交換した。
 慶長8年(1603年)、伏見城の再建普請に参加。慶長11年(1606年)、江戸城の石垣普請を分担した功で備前三郎國宗の脇差しと馬を賜っている。
慶長19年(1614年)9月24日[1](または14日)に死去。享年45。 

池田長常

 慶長14年(1609年)、備中松山藩初代藩主・池田長幸の長男として誕生。
 武勇に優れ、勇猛な士を愛する人物だといわれている。また、藩主になる前から江戸幕府3代将軍・徳川家光に兜を受領するなど、寵愛を受けていた。寛永9年(1632年)の父の死去により家督を継ぐ。この時、次弟の長純(長教)と分割相続すべきとの遺言で、叔父の長頼と長純の舅である脇坂安信が口論、長頼が安信の弟・安経を殺害、長頼は切腹,安信も改易された。長常にはお咎めなく一括相続されている。
 寛永10年(1633年)、松江藩の堀尾忠晴が嗣子の無いまま死去して堀尾家が改易となった際、松江城を守備した。
 長男の万大夫が早くに死去して娘しかおらず、死に臨んで娘を末期養子として家督を継がせようとしたが、幕府からの裁定が下る前に寛永18年(1641年)9月6日に死去(享年33)結局、末期養子を許されず、備中松山における池田家は断絶した。
 長常・長信の母の嘆願により、三弟の長信が1000石の旗本となって井原に陣屋(井原陣屋)を持ち、4箇村を治めることを許され、池田家の家名は辛うじて存続した。