G636:片切為基 | 源 経基 ― 源 満快 ― 片桐為基 ― 片桐直貞 | G637:片桐直貞 |
リンク | KI19・{G351} |
片桐且元 | 片桐貞隆 |
---|---|
元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現在も残っている。 |
21歳の時に兄と共に豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられた。その後、小田原征伐、文禄の役などに従軍したことから、播磨国内に1万石余の所領を与えられる。秀吉没後は兄と共に豊臣秀頼に仕えたが、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘問題を契機に徳川家康との内通を疑われるようになり、兄と共に豊臣氏のもとから去って、家康に仕えるようになり、大坂夏の陣の後、1615年、大和国小泉に1万6千石を知行された。 |
片桐貞昌 | 片桐信方 |
茶道石州流の祖として有名である。 |
江戸時代末期の旗本。石州流の家元。信隆より数えて6代目の旗本家の当主。別名靱負。 |
片桐俊元 | |
片桐半右衛門俊元(または一長,俊忠,正義)は軽海西城を居城とし織田信長に仕えていた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで功名をあげた池田恒興は織田信長から30人の侍大将に抜擢され、その際に土倉四郎兵衛と八木笹右衛門を組頭として付けてもらったが、恒興はさらに願い出て香川長兵衛(伊木清兵衛)と片桐半右衛門を与力にしてもらったのである。これが俊元と池田家の関係の始まりである。『池田家履歴略記』には、「片桐半右衛門は知恵明かに義理を正し仕え候えは、政道の御相談は彼にしくもの有るへからず、長兵衛同前に御取立有るへし」とある。 |