清和源氏

G636:片切為基  源 経基 ― 源 満快 ― 片桐為基 ― 片桐直貞 G637:片桐直貞


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片桐且元 片桐貞隆

 元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現在も残っている。
 且元が家督を継いだ時期は定かではない。天正7年(1579年)ごろ、同じ近江生まれの石田三成らと共に長浜城時代の羽柴秀吉の家臣として仕えたといわれている。
 天正11年(1583年)5月、賤ヶ岳の戦いでは福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。このとき、秀吉から戦功を賞されて3千石を与えられている。その後は前線で活躍する武将ではなく、奉行人としての後方支援などの活動が中心となり、道奉行としての街道整備や、九州征伐では軍船の調達、小田原合戦では小田原城の接収に立会い、奥州仕置では浅利事件の調査を行う。また、各地の検地や境界争論の調停、鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営などに携わる。秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、釜山に駐在し晋州城攻撃などに参加。文禄2年(1593年)に帰国。文禄4年(1595年)には摂津国茨木城主、慶長3年(1598年)には大坂城番となり城詰めとなる。
 且元が与えられた所領は播磨に一万石ほどに過ぎなかったが、秀吉の晩年には豊臣秀頼の傅役の一人に任され、羽柴姓も与えられている。
 方広寺鐘銘秀吉死後は秀頼を補佐し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い後、五大老筆頭の徳川家康から大和竜田に2万8千石の所領を与えられた。その後も秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立を避けることに尽力した。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が起こって対立が激化すると、且元は戦争を避けるために必死で家康との和平交渉に奔走したが、家康と交渉している間に大野治長や秀頼生母の淀殿から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を逐電した。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となっている。そして大坂の陣が始まると家康に味方して戦後、4万石に加増された。
 だが大坂夏の陣後から20日ほどして、突如の死を遂げる。病死説もあるが、秀頼を救うことができなかった(且元は、大坂の陣で家康に味方する代償として、秀頼の助命を嘆願していたらしい)ことからの責任を感じて、自殺したとも言われている。

 21歳の時に兄と共に豊臣秀吉に仕え、播磨国に150石の所領を与えられた。その後、小田原征伐、文禄の役などに従軍したことから、播磨国内に1万石余の所領を与えられる。秀吉没後は兄と共に豊臣秀頼に仕えたが、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘問題を契機に徳川家康との内通を疑われるようになり、兄と共に豊臣氏のもとから去って、家康に仕えるようになり、大坂夏の陣の後、1615年、大和国小泉に1万6千石を知行された。
 兄より遥かに激しい気性の持ち主であったと言われている。

片桐貞昌 片桐信方

 茶道石州流の祖として有名である。
 寛永4年(1627年)、父の死去により家督を継いで藩主となった。このとき、弟の貞晴に3000石を分与したため、小泉藩は1万3000石となった。
 貞昌は寛永9年(1632年)から寛永20年(1643年)まで知恩院再建の普請奉行を務め、そのほかにも関東の郡奉行などを歴任し、また水害地の視察にしばしば出張するなど土木建築に功績を挙げた。寛永15年(1638年)には大徳寺山内に高林庵を建立している。
 茶人としての石州は、最初、千利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙に学んだといわれている。30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明や近江小室藩主・小堀遠州らともよく茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠として次第にその名が広がっていった。特に第4代将軍・徳川家綱のために『茶道軌範』を作り、なおかつ寛文5年(1665年)には家綱の茶道指南役となり、石州流を不動のものとした。茶人として貞昌が成功したのは、母方の祖父が有名な茶人のひとりである今井宗久だったからかもしれない。
 寛文3年(1663年)、父の菩提のために慈光院を創立した。これは寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま三百年を越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見ても貴重な場所となっている。慈光院の庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室が国宝保存法により当時の国宝に指定された(1950年の文化財保護法により重要文化財となる)。
 延宝元年(1673年)11月20日に死去。享年69。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺高林庵。ちなみに徳川光圀,保科正之,松浦鎮信らは、茶道における貞昌の門弟である。

 江戸時代末期の旗本。石州流の家元。信隆より数えて6代目の旗本家の当主。別名靱負。
 父・片桐信任,祖父・片桐信馮より片桐石州伝来の石州流を伝授される。井伊直弼の師匠で有名。茶道,華道,盆石と伝承されていたが宗猿以降に分流される。この茶道の系譜を宗猿系という。

片桐俊元

 片桐半右衛門俊元(または一長,俊忠,正義)は軽海西城を居城とし織田信長に仕えていた。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで功名をあげた池田恒興は織田信長から30人の侍大将に抜擢され、その際に土倉四郎兵衛と八木笹右衛門を組頭として付けてもらったが、恒興はさらに願い出て香川長兵衛(伊木清兵衛)と片桐半右衛門を与力にしてもらったのである。これが俊元と池田家の関係の始まりである。『池田家履歴略記』には、「片桐半右衛門は知恵明かに義理を正し仕え候えは、政道の御相談は彼にしくもの有るへからず、長兵衛同前に御取立有るへし」とある。
 恒興は片桐俊元と香川長兵衛を池田家の柱石として遇した。恒興は天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで戦死するが、その後を継いだ輝政も俊元を重臣として用いた。天正18年(1590年)、池田輝政は豊臣秀吉の命によって三河吉田城に15万石で入ると、俊元はそのうちの7,000石で新城城の城主となった。
 慶長2年(1597年)、病没した。男子に恵まれなかった俊元は天正11年に恒興に懇請して4男・橘左衛門(長政)を養子としており、俊元の家督は池田長政が継いだ。慶長5年(1600年)、長政は池田主家とともに姫路に移った。