<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

G637:片桐俊元  片桐俊元 ― 池田長政 KI19:池田長政

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池田長政 池田長明

 天正3年(1575年)、池田恒興の4男として尾張国犬山に誕生した。幼少時に片桐俊元の養子となり、慶長2年(1597年)に俊元が死去すると、家督と三河国新庄7000石の所領を継いだ。
 『池田家履歴略記』によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄・輝政と共に東軍に与して織田秀信の籠る岐阜城攻めで軍功を挙げ、本戦にも参戦した。この功により、戦後に1万5000石を加増され2万2000石となり、播磨国赤穂城主に任じられたが、一説には東西どちらが勝っても池田氏が存続できるように、兄の命令で西軍に与していたともいわれる。
 その後、さらに1万石の加増を受け、慶長8年(1603年)には備前国下津井3万2000石の領主となる。江戸城普請や駿府城普請でも功績を挙げた。
 慶長12年(1607年)7月20日、伊勢国庄野庄にて死去した。享年33。家督は子の長明が継いだ。長政の家系は輝政の孫・池田光政から始まる岡山藩の家老(片桐池田家)として明治時代まで存続した。

 慶長11年(1606年)、岡山藩家老・池田長政の嫡男として備前下津井に誕生する。慶長12年(1607年)に父・長政が死去し、幼児では要衝の地の下津井を治め難いとの理由から、領地を平福に移される。実家に戻る母に連れられて、祖父・加藤嘉明の領地伊予松山に行き養われる。
 慶長18年(1613年)、池田利隆の藩主相続に合わせて、播磨龍野に移る。元和3年(1617年)、藩主・光政の鳥取転封に伴い、伯耆八橋に移る。寛永9年(1632年)、光政の岡山転封に伴い、備前周匝に移り、陣屋を構えて周匝2万2000石の領主となる。以降代々周匝を治め、明治維新を迎えた。
 慶安5年(1652年)6月、藩主・光政より日置忠治,池田直長と共に老中(仕置家老)を命じられ、慶安6年(1653年)4月、直長が乱心により辞任してからは忠治と2人で藩政を主導した。寛文7年(1667年)、光政より学校設立に尽力するよう命を受ける。寛文8年(1668年)、隠居して次男の長久に家督を譲る。延宝7年(1679年)3月7日没。
 家督を継いだ息子・大学(長久)が藩主・光政に叱責され、家老(大臣)のありかたを説かれた逸話で「伊賀(長明)は、遠い将来のことまで考えて、予(光政)を諌め、人を推挙して職に任命した」と評されている。 

池田長喬 池田長仍

 延宝4年(1676年)、岡山藩家老・池田長久の嫡男として周匝に誕生する。天和3年(1683年)、藩主・池田綱政に御目見する。元禄10年(1697年)、父・長久の死去により家督相続し、岡山藩仕置家老,周匝2万2000石の領主となる。名を靫負と改める。
 元禄11年(1698年)9月、江戸の勅額火事により岡山藩中屋敷,向屋敷,三河町屋敷が焼失したため、大坂の両替商・鴻池善右衛門から借用した銅200貫や大工,足軽を江戸に送った。
 元禄12年(1699年)、幕府より、当時天領となっていた福山領の検地御用(元禄検地)を命じられ、その惣奉行を務めた。元禄13年(1700年)、検地御用を務めたことを幕府より賞されて銀と時服を賜った。同年7月、名を主殿と改める。元禄14年(1701年)3月23日、赤穂事件発生後の赤穂藩の様子を情報収集し、江戸の藩主・綱政に書状で報告している。正徳元年(1711年)、朝鮮通信使接待役の総責任者を務める。享保8年(1723年)4月18日没。家督は嫡男の長處が相続した。

 享保10年(1725年)、岡山藩家老・池田長處の子として周匝に誕生した。庶子として生まれたため、家臣・大沢治右衛門に預けられて養育された。享保17年(1732年)、藩主・池田継政の命で父・長處の嫡子となる。享保18年(1733年)、継政に御目見する。宝暦4年(1754年)閏2月、長處の隠居により家督相続し、岡山藩家老,周匝2万2000石の領主となる。
 宝暦5年(1755年)9月、仕置家老となる。宝暦13年(1763年)7月、仕置家老を辞任する。明和3年9月、再び仕置家老となる。明和7年(1770年)、名を大和と改める。安永10年(1781年)、通称を近江と改める。寛政元年(1789年)3月、隠居して家督を弟・長玄に譲る。寛政8年(1796年)没。
 藩主・池田治政は茶の湯に熱心な数寄大名として知られ、長仍も茶の湯を嗜み、速水流の開祖速水宗達とも交流があった。

池田長玄 池田長貞

 寛保元年(1741年)、岡山藩家老・池田長處の子として周匝に誕生する。寛政元年(1789年)、兄・長仍の隠居により家督相続し、岡山藩家老,周匝2万2000石の領主となる。
 寛政8年(1796年)、藩士・湯浅明善(湯浅常山の子)の建白を受け、藩主・池田斉政が藩の財政難打開のため、老中・松平定信の寛政の改革に倣った藩政改革を開始。改革反対派の仕置家老に代わり、長玄と日置忠章が、仕置職に任じられ藩政を担った。しかしながら、岡山藩の寛政の改革は反対派の激しい抵抗で、明善を含む改革派の小仕置,奉行等が辞職に追い込まれ失敗することになった。
 文化2年(1805年)9月、隠居して家督を養子の長紀に譲る。

 寛政10年(1798年)、生坂藩主・池田政恭の次男として生まれる。岡山藩一門家老・池田長紀の養子として迎えられた。実父の政恭は岡山藩第5代藩主・池田治政の庶長子で、第6代藩主・斉政の実兄であるが、支藩生坂藩主・政房が夭折し、無継嗣による改易を防ぐために身代わりとなって生坂池田家を相続していた。長貞は父の実家の一門家老家に養子入りし、実の叔父である藩主・斉政に仕えることになる。
 文政3年(1820年)、御用番請持となる。文政4年(1821年)、養父・長紀の隠居により家督相続し、岡山藩仕置家老,周匝2万2000石の領主となる。文政12年(1829年)、仕置家老を辞任する。嘉永4年(1851年)、隠居して家督を嫡男の長常に譲る。嘉永6年(1853年)没。享年56。 

池田長常 池田長準

 文政3年(1820年)池田長貞の子として岡山に生まれる。嘉永4年(1851年)、父・長貞の隠居により家督相続し岡山藩家老,周匝2万2000石の領主となる。慶応元年(1865年)、藩主・池田茂政に仕置家老に任じられる。慶応3年(1867年)には軍事御用惣引請となり岡山藩の兵制改革を行った。慶応4年(1864年)隊員を主に足軽からなる銃隊19隊を編成した。
 明治2年(1869年)、隠居して家督を嫡男の長準に譲る。明治9年(1876年)10月23日没。明治33年(1900年)、長常の明治維新への功績により、長準が男爵に叙され華族となった。

 嘉永6年(1853年)、岡山藩家老・池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)に父・長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長,磐梨郡長,二十二銀行取締役,二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。
 大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去。享年61。家督は養子・長康(元岡山県令で貴族院議員の千坂高雅6男)が相続した。
 書画や骨董の愛好家で、特に禅僧・白隠慧鶴を私淑し、その筆跡を収集して自ら百陰居士と号した。