清和源氏

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片切為基 片切為行

 平安時代後期の武将。通称は片切源八。蔵人大夫と称し、蔵人であった。片切氏の祖でその支流に飯嶋氏,赤須氏,大嶋氏,岩間氏,名子氏,片桐氏(近江),三沢氏(出雲)などがいる。
 父・為公より信濃国伊奈郡における勢力の一部(片切郷・飯嶋郷・大嶋郷・名子郷・赤須郷)を継承し郡内に入部し、片切郷に住したとされる。『尊卑分脈』には「蔵人大夫」との記述があり、これに従えば都で活動した時期を有し叙爵していたことになる。

 片切郷・飯嶋郷・大嶋郷・名子郷・赤須郷地頭。伊那源氏の片切氏の二代目当主として片切郷に居住したと考えられている。また兵庫助の官職を有したとされることから、父と同じく都で活動した時期を有した可能性がある。複数の子息があり、本領・片切郷のほか隣接する飯嶋郷,大嶋郷,名子郷をそれぞれ分知している。
片切景重 片切昌為
 景重は保元・平治の両乱で源義朝に従い活躍したが、平治の乱で源氏が没落したことで平氏に領地を没収された。建久3年(1192)、鎌倉幕府の成立により源頼朝から本領を安堵され再び家を興した。頼朝の上洛に際して、大島・名子氏など片桐氏一族27名が随伴するなど、鎌倉幕府御家人に列らなっていたことが知られる。  弘治2年(1556年)、武田信玄の家老で伊奈郡代・秋山伯耆守虎繁の同心となる。永禄10年(1567年)8月、武田氏に対して「下之郷(生島足島神社)起請文」を単独で呈している。天正3年(1575年)の長篠の戦い後、8月10日付の保科正俊に宛てた武田氏軍役覚書には、飯嶋,片切氏ら春近衆は、織田勢が信濃国境を突破してきた場合、高遠城に籠城するよう命じられている。その際、勝頼側近の小山田昌盛と飯田城代・保科正直の下知に従うよう記されている。その年の11月には、虎繁と伊奈衆・東美濃衆が籠城していた岩村霧ヶ城が開城し、虎繁は処刑される。天正10年(1582年)2月の織田信長による甲州征伐の際、昌為は正直に従い飯田城を守備していたと考えられるが城の自落のため北へ逃れ、そして高遠城からも逃亡する。3月2日には仁科信盛を城主とし飯嶋氏らが守る高遠城は織田信忠に攻められ全滅した。同年、意釣斎西鎌(昌為の入道名と考えられる)は帰郷して大草休斎(香坂宗緑)に属し、7月に徳川家康に対して帰属する旨の「天正壬午起請文」(遠江国浜松の秋葉社奉納)に署名している。ただ、天正13年(1585年)頃には、片切氏当主は浪人となり家名を失った。