清和源氏

G104:源 経基  源 経基 ― 源 満快 G631:源 満快

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源 満快 源 満国

 都における中級官人として活動し、右衛門尉,検非違使,相模介,下野守などを歴任し極位は従五位下であったとされる。その詳しい動向は不明であるが、下野守在任中もしくはそれに近い時期に卒去していることを伝える記録が残る。
 満国,行頼(行満)ら3人の子も中級官人として東国の受領などを務めたとされ、その子孫は武家として主に信濃国に土着した。

 詳しい事績は不明であるが、永延元年(987年)頃、摂津国能勢郡宿野に撰見の館を築き居住したとされる。また、遠江守在任時であった長徳年間(995~998年)頃、勅命に背いたとして三河国に配流され、同国刈宿(愛知県西尾市刈宿)の地に亡き母の菩提を弔うための寺院のほか神社を建立したと伝えられる(現在の常福寺および熊野神社)。
源 為公

 伝えによれば、前九年の役・後三年の役に従軍して戦功を挙げた後に信濃守となって任国に下り、同国伊奈郡に永承年中に土着した。「真人」の通称があることや子孫達の伊奈での優位性などから伊奈郡宰領(郡司)となって土着したとも推測される。為公が築いたといわれる郡内北部の上ノ平城は長子・中津乗為衡の家系が居城とした。
 諏方社の神職を世襲する信濃の名族・神氏(諏方氏)に娘を嫁がせ姻戚関係を結んだ。婿であった大祝・神為仲は後三年の役で奥州へと発向する際、神氏に伝わる系図類の一切を舅・為公の許に預けたが、これを紛失したことにより為仲の曾祖父より先14代の神氏の系譜が不明となったという。
 為公の子孫は信濃国内を中心に幾つもの有力な武家となって存続したことから、信濃源氏の祖の一人(あるいは伊那源氏の祖)とされる。