清和源氏

G631:源 満快  源 経基 ― 源 満快 ― 依田為実 G635:依田為実

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依田実信 依田信守

 信濃国小県郡依田庄を本拠とする依田氏の当主。父・為実の開発した依田庄を継承し、また同地に存在した依田城の築城者であったとも伝わる。治承4年(1180年)に木曾義仲が信濃国内で挙兵すると、その拠点として依田城を提供し、以後一族を挙げて義仲と行動を共にしたと云われる。『源平盛衰記』には翌寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いで三千余騎を率いて活躍する武将の一人「余田次郎」としてその名がみえている。
 義仲が頼朝に滅ぼされると、依田庄は茂木氏に与えられ、依田氏は飯沼を領するだけの小領主となり、飯沼氏を称した。その後、北条氏執権下において、得宗家臣となって次第に勢力を盛り返し、茂木氏の支配に抵抗して、依田庄の支配権を回復していった。

 芦田氏は元々は独立した国人領主であったが、室町時代においては、在府と在地に分かれ、在府は評定衆,奉行衆,奉公衆を建武年間から文明年間まで任命され、在地においては守護代・大井氏に臣従していた。
 天文10年(1541年)、武田信虎は諏訪頼重と共に小県郡に侵入。諏訪頼重は帰路に芦田城に侵攻し、10歳に満たない幼少の信守を生け捕りにし主従関係を誓わせる。しかし翌天文11年(1542年)、諏訪頼重が武田晴信に自害させられる。以後は甲斐武田氏に仕え、信濃先方衆として活躍した。
 永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは妻女山攻撃に参加して奮戦し、永禄9年(1566年)武蔵国御嶽城の在番を子の依田信蕃と共に務め、永禄11年(1568年)の駿河国薩埵峠の戦いに参陣した。元亀3年(1572年)、信玄が東海道を侵攻すると(西上作戦)、秋山信友に従軍して岩村城を攻めた。
 信玄の死後は武田勝頼に仕えて遠江国二俣城に入城する。天正3年(1575年)、長篠の戦いで勝利した徳川家康に二俣城を包囲される中、城中で死去した。

依田信蕃 依田康国

 信蕃は当初から信玄に信濃国先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き武田勝頼に仕えた。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いにも参陣し、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いの時期には遠江国二俣城の守将を務めた父・芦田信守と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。
 病床にあった信守は死去したため信蕃が守将となり、弟の信幸と共に籠城が続行された。武田勝頼の退却命令と力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れにより開城し、高天神城に退去することになった。退去の際は雨が降っており、信蕃は「開城は延期してほしい」と家康に申し出た。理由としては、「蓑や笠を身に付けて城を退くようでは敗残の兵のようで見苦しい、好天の日にお願いしたい」と申し出て、晴天となった3日後に引き揚げた。明け渡しに立ち会った家康の重臣大久保忠世が場内に入ると、整然とした場内はきちんと清掃されていた。大久保の報告を受けた家康も感心したと伝えられている。後に駿河田中城の城将となった。
 天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐が始まると、徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。武田勝頼が自害し田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが謝絶した。その後、自領の春日城へ帰還するも、織田方の粛清を恐れて家康の薦めで遠江に一時的に潜伏した。
 ところが、同年6月、織田信長が本能寺の変で横死すると、信濃・甲斐の織田勢力は雲散霧消してしまい、その結果、信濃・甲斐両国は徳川氏,北条氏,上杉氏の草刈場と化したのである。信蕃は徳川家康と連絡を密にして甲斐の武士たちを味方に引き入れ、佐久に攻め入り、北条方の軍勢と戦った。結果、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で後北条氏との講和が10月29日に成立した。
 家康は信蕃の功を賞して佐久・諏訪の二郡を与え、小諸城代として報いた。しかし、信蕃に降ることを快しとしない者は北条氏に属する岩尾大井氏のもとに馳せ集まり、それに大井氏譜代の佳辰たちも続々と行吉のもとに集結した。信蕃は天正11年(1583年)2月21日、岩尾城の大井行吉を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。2月22日、実弟,信幸と共に敵の銃撃を受ける。信幸は同日に死去し、信蕃は翌日の2月23日に死去した。享年36。後に長男の松平(依田)康国が整備した蕃松院が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。
 家康に属した期間は短いものだったが、家康の信蕃に対する評価が非常に高いものだったことは、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城が与えられ、そして相続を許された所領が当時の家康家臣としては最大級の6万石という大領だったことからも推測される。

 幼少時は、弟・康勝と共に甲斐武田氏の人質となる。天正壬午の乱後の天正11年(1583年)、後北条氏方の大井行吉が籠城する岩尾城を攻略中、敵の銃撃を受けた父・信蕃が、その戦傷により没したため家督を継ぐ。
 信蕃の功績を認めた徳川家康は、同天正11年3月、康国に「康」の偏諱と松平姓を与えて元服させ、松平源十郎康国と名乗らせ、大久保忠世を後見人として小諸城と6万石を賜る。同年、父の菩提を弔うため、田口城麓の居館跡に蕃松院を整備した。同寺に信蕃の位牌と、夫妻のものと伝わる墓所が残る。
 天正15年(1587年)11月には大久保忠隣の娘と婚姻している。なお、忠隣の娘は康国の没後に弟の康勝と再婚したとみられる。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐において、徳川旗下のまま前田利家の先導役として同軍に属し、佐久郡白岩城,大道寺政繁の上野国松井田城,西牧城などの攻略に参加した。寺尾左馬助(石倉治部)の守る上野石倉城を攻略中、戦死した。左馬助から康国への申し入れにより、いったんは開城となったが開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った左馬助が康国を殺害、弟・康勝が左馬助を討ち取った、という話も伝わる。

依田康勝(康貞)

 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に、徳川勢の一員として兄と共に従軍。後北条氏の上野国の拠点へ攻撃を開始する。同年4月、兄が上野石倉城攻めで戦死したが、その跡を継いで相模国津久井城などを攻めた。小田原征伐ののち、家督と兄の遺領の小諸領(春日城)を継ぐ。家康が関東に移ると、武蔵国と上野に計3万石の領地を預けられ、藤岡城主となった。
 慶長5年(1600年)1月23日、大坂の旅宿で囲碁をしていた際、同僚の小栗三助を喧嘩口論の末に殺害してしまう。小栗が囲碁で負けたのち、依田を罵ったことが原因とされている。また、康勝が兄の没後にその未亡人を妻としたことを揶揄され憤慨して事件を起こしたとも伝えられている。反省した康勝は大坂を出奔し、高野山にて謹慎するが改易となり、藤岡3万石は没収された。しばらく浪人となった後、結城秀康の家臣となった。
 秀康に仕える際、世間を憚り、母方の加藤氏の苗字から加藤康寛(加藤宗月)と改名した。慶長6年(1601年)2月、秀康が越前国に封じられると、北ノ庄城(のちの福井城)受け取りのために、秀康譜代の家臣である本多富正と康勝が先行して越前に派遣された。秀康の下では食禄5,000石、美濃国との交通の要衝・越前大野郡木本を預けられた。
 同慶長6年、康勝は兄・康国の菩提を弔うために、父・信蕃,祖父・芦田信守が拠った信州春日城の麓に、信蕃の叔父・天外大雲禅師を開山として康国寺を建立した。同所に康国夫妻の墓が残る。慶長11年(1606年)の秀康の死に際し、幕府は複数の福井藩の重臣を指名し、殉死を行うことを固く禁じた。この中に康勝も含まれる。大坂の陣の際は「大野郡が一揆が多発する地域」という理由で大野城代として留守の防備に当った。元和9年(1623年)に死去したと言われるが、没年には異説もある。
 子孫は福井藩の重臣・芦田信濃家として、家老を輩出する高知席の17家の一席を担った。