清和源氏

K319:清和天皇  源 経基/経生 G104:源 経基/経生


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源 経基 源 満仲

 承平8年(938年)武蔵介となり現地に赴任する。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したため、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。
 この話を聞きつけた平将門が私兵を引き連れて武芝の許を訪れると、経基らは妻子を連れ、軍備を整えて比企郡の狭服山へ立て篭もる。その後、興世王は山を降りて武蔵国府にて将門,武芝らと会見するも、経基は警戒して山に留まった。武蔵国府では双方の和解が成立して和やかに酒宴が行われていたが、その最中に武芝の者達が勝手に経基の営所を包囲したために、経基は将門らに殺害されるものと思い込んで慌てて京へ逃げ帰り、将門,興世王,武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告する。しかし将門らが承平9年5月2日付けで常陸,下総,下野,武蔵,上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を太政大臣・藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されてしまった。
 天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃,占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となったことによって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた。その後、征東大将軍・藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討されたことを知り帰京。941年に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来を捕らえるにとどまるが、それも武勲と見なされる。武蔵,信濃,筑前,但馬,伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。
 晩年、経基は臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、同時代の摂政太政大臣・藤原忠平の日記『貞信公記』の天慶2年(939年)3月3日付に「源経基、武蔵の事を告げ言う」と記されているのもあり、経基が果たして皇族であった時期があったかどうか疑問視もされている。ただしこの記述については、忠平の子・藤原実頼が抄録した際に源姓を書き入れたとする説もある。嫡子の源満仲が建立したという六孫王神社に祀られている。
 『尊卑分脈』,『勅撰作者部類』によれば、長男の満仲より後に生まれたことになる。系図纂要には897年とあり、もしこの説が正しければ15歳の時に満仲を儲けたことになり妥当にも思えるが、同書は幕末期の編纂物であり単に矛盾に気づいた系図家などが手を加えた産物である可能性があるから、通常の歴史学の手法による限りこれを根拠とすることはできない。清和源氏の祖でありながら歴史の表舞台に登場したのが僅か7,8年に過ぎないこともあって正確な生没年は未詳である。 

 当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)、平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこれの捜索を命じられた武士のひとりとして現れたのが史料上の初見。
 安和2年(969年)の安和の変で謀反を密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲は対立する有力武士・藤原千晴(藤原秀郷の子)の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞で正五位下に昇進した。
 摂関藤原家に仕えて、武蔵国,摂津国,越後国,越前国,伊予国,陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭,治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした役職に就くことによって莫大な利益を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に自邸を焼き討ちされている。
 そして、寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に息子たちと共に関与したとされる。
 2度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘)に入部し、所領として開拓するとともに多くの郎党を養い武士団を形成した。
 永延元年(987年)に出家して満慶と称した。藤原実資は『小右記』で「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と書いている。『今昔物語』には、満仲の子の延暦寺の僧・源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主・院源と仏法を満仲に説き、出家させたとの説話がある。
 長徳3年(997年)に死去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。 

源賢 源 孝道

 平安時代中期の延暦寺天台宗の僧・歌人。源満仲の3男で、母は近江守源俊女。幼名を美女丸と言った。多田法眼,摂津法眼などと号した。天禄3年(972年)に登壇受戒。良源,恵心,尋禅らに師事。長和元年(1012年)元慶寺別当になり、翌年の長和2年(1013年)に法橋に叙され、寛仁元年(1017年)法眼に昇った。同4年、60歳前後で入滅。和歌をよくし、歌集『源賢法眼集』を残した。他に『樹下集』20巻を撰したと伝えられるが散逸して現存しない。『後拾遺和歌集』に2首入集。
 「美女丸伝説」では、源満仲が息子の一人美女丸(美丈丸と表記することもある)を出家させようと考え、彼を近隣の中山寺に預けていた。しかし美女丸は武術を好んで仏道の修行を怠ったため、怒った満仲は郎等の藤原仲光に美女丸を殺すように命令した。仲光は主君の命令とはいえ美女丸を殺すに忍びず、美女丸とよく似たわが子・幸寿丸を身代わりにして首をはね、満仲に差し出した。美女丸は改心して修行に励み、源賢という高僧になった。
 美女丸の母はわが子が殺されたと思い込んで悲しみのあまり失明した。故郷に戻った源賢は、母と再会して親子の名乗りをした後、母のために阿弥陀仏に念じて祈願した。その満願の日に奇跡が起こり、母の目は元通りに治った。源賢が仏への感謝のために立てたのが満願寺であるという。 

 平安時代中期の文人。伯父(母の兄弟)にあたる源満仲の養子となる。子に源永成,源政隆がいた。
 弾正少弼,左衛門権佐,大和守,越前守などを歴任し、極位は従五位上であった。この間、寛弘年間(1004~12年)には、内裏や藤原道長邸などでの作文会に招かれて、漢詩を賦したり講師を務めるなど、一条天皇朝の文人の一人として活動した。寛弘7年3月30日の除目で、既に死去していた孝道の替わりに新たに別人が越前守に補任されていることでこの年に没したものと推定できる。『本朝麗藻』,『類聚句題抄』,『擲金抄』に合計14首の漢詩文が残る。