G104:源 経基 | 源 経基 ― 源 頼光 | G105:源 頼光 |
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源 頼光 | 源 頼国 |
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父は鎮守府将軍源満仲、母は近江守源俊女。生誕地は不明だが本拠地の多田であるか、父の満仲は天延元年(973年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。若年の経歴は不明。同時代の中級貴族と同じく20歳前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て財力を蓄えていたと考えられている。 |
父の頼光同様、主に京における中級官人として活動する。特に藤原道長一族との結びつきが強く、道長の娘上東門院彰子、その所生の皇子敦成親王(後一条天皇)に長きに渡って近侍した。武人としてよりも文人としての活動が主体であり、寛弘4年(1007年)に道長の催した漢詩の会に出席したことなどが記録に見える。内昇殿を許され、娘達を摂政藤原師実、参議藤原為房といった公卿の妻妾に配すなど、総じて貴族社会の一員としての側面が強かった。 |
六条斎院宣旨 | 源 実俊 |
平安時代後期の歌人・作家。六条斎院(禖子内親王)の宣旨(女房の筆頭格)。主家である禖子内親王家で催された「六条斎院歌合」に16度出詠したことが確認される。はじめ藤原高定の妻となったが、後に源隆国と再婚したものと推測されている。天喜3年(1055年)の「六条斎院禖子内親王家物語合」では物語「玉藻に遊ぶ権大納言」を提出した。また『狭衣物語』の作者であると考えられている。 |
平安時代後期の武士。院政期の蔵人所雑色(蔵人所の下級職員)。応徳3年(1086年)藤原師実の日吉社競馬に陪従した。 |
相模 | |
中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。実父は不詳で摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保章の娘。初名は乙侍従。十代の頃、橘則長の妻となるが離別、1020年(寛仁4年)以前に大江公資の妻となり、「相模」の女房名で呼ばれるようになる。夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、1025年(万寿2年)頃離別した。この頃、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られている。やがて一条天皇の第1皇女(入道一品宮)脩子内親王に出仕。1049年(永承4年)内親王薨去後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。この間、数々の歌合に名を連ね、後朱雀,後冷泉朝の歌壇で活躍した。彼女は和歌六人党(藤原範永,平棟仲,藤原経衡,源頼実,源頼家,源兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師,和泉式部,源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺える。『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る他、以降の勅撰集、家集等に多数作品を残している。 |