清和源氏

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源 頼資 溝杭資兼

 平安時代中期の武将・官人。左衛門尉などを務め従五位下に至るが、下野守在任中に上野介橘惟行と私闘し、惟行の館を焼き人民を殺害したとして訴えられた。この罪により康平7年(1064年)9月に佐渡国への流罪が決まった。しかし深雪により佐渡への護送が困難に成ったため、同年12月改めて土佐国へ流刑になった。治暦2年(1066年)7月に勅により免罪されたが、翌月病死した。
 勅撰集入集歌はなかったが和歌を嗜んでおり、永承年間(1046 - 52年)から康平3年(1060年)の間に、橘資成とともに頼資資成歌合を催すなどしている。
 後代、五男資兼の系統が摂津国嶋下郡溝杭(現在の大阪府茨木市内)を代々領有し、溝杭氏として存続した。 

 平安時代後期の武士。溝杭氏の祖。受領や摂関家勾当などを務めた兄たちに対し資兼は官歴が伝わらずその経歴も詳らかでないが、従五位下の位階を帯びていたとされ、母方の所領であった摂津国嶋下郡溝杭の地を相続したことから溝杭大夫と号したという。溝杭の所領は子の資時(溝杭源二)に継承され、代々子孫が相続した。 
平岡頼勝 平岡良清

 秀吉に仕え、のち秀吉の甥・秀秋に付けられ、秀秋が小早川家を継ぐことになったとき、ともに付いて出て小早川家の家老となった。関ヶ原の戦いで、小早川家は最初西軍に属したが、東軍に寝返らせたかげの貢献者が、すなわち頼勝であった。
 そのとき秀秋19歳、頼勝40歳であった。戦後秀秋は寝返りの功によって、備前岡山五十一万石の城主となり、それにともなって頼勝も同国児島で二万石が与えられた。その翌々年秀秋が死んで小早川家は断絶、頼勝は家康に仕えて、美濃徳野に新封一万石を得た。
 しかし、その子頼資のとき、気狂いで先行き回復の見込みなしということで所領は没収され、改易の憂き目にあった。家名は頼資の弟頼重に千石が残され、旗本家として存続した。 

 因幡守良清の代に甲斐守護武田信虎に仕え、その子頼成,孫道成は武田信玄・勝頼に仕えた。しかし、天正10年(1582)武田氏が滅亡、その後は多くの武田家遺臣がそうであったように甲斐平岡氏も徳川家康の麾下に入った。子孫は、徳川旗本家として支流十三家(絶家四家)を数えるまでに広がっている。