永承3年(1048年)頃、蔵人であった。和歌も嗜み、翌4年(1049年)11月に催された『内裏歌合』に出席したりもしている。また累代の本拠地である多田庄を継承せず、摂津国内に新たに生島庄を開発したことが知られる。官歴は詳らかでないが、その後は受領となって四位に至り、最終官職が常陸介であったことや承暦4年(1080年)に61歳で出家したことなどが確認されている。 子孫は代々摂関家に仕える京武者・中下級貴族の家系として存続したほか僧侶も輩出しており、鎌倉時代初期に朝廷と幕府の交渉にあたった国基とその子観基(寛基)や天台座主となった慈賢などが知られる。また本拠地生島庄は嫡子行実から顕行、雅行へと伝わり、その後も実国の子孫が代々相伝している。