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源 頼綱 | 源 明国 |
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母は尾張守藤原中清の娘。頼光の弟・頼範の子とする説が提示されたことがある。多田頼綱とも呼ばれる。 |
名は行光。「多田」を号したことから多田明国とも記される。 |
源 頼子 | 源 盛子 |
平安時代後期の女官。白河天皇の後宮に奉仕し、その寵愛を受けて官子内親王(清和院斎院)を産んだ。 |
平安時代後期の女官。掌侍として堀河天皇,鳥羽天皇,崇徳天皇に仕え、三河内侍(または参河掌侍)と呼ばれた。寛治5年(1091年)10月25日には掌侍として堀河天皇の御使を奉仕した。藤原北家勧修寺流の一族である土佐守藤原盛実の妻となり、藤原顕憲,藤原伊通妾,藤原忠実妾らの母となる。 |
源 頼憲 | 源 経光 |
兄・頼盛と多田荘の相続を巡って対立し、頼憲も「多田」を号した。摂関家の内部で藤原忠通・頼長兄弟の対立が起こると、頼盛が忠通に従属したのに対して、頼憲は頼長に仕えその勾当となる。久安3年(1147年)には頼長の推挙により内昇殿を許されており、仁平元年(1151年)には頼長の命により、同じく頼長の家人である源為義の摂津の旅亭を焼却したこともあった。 |
久安2年(1146年)3月9日の夜半に経光の従兄妹にあたる官子内親王(白河天皇第五皇女)の邸宅が落雷により焼失した際、兵仗を手に執り轟く雷を追い払おうとしたところ邸に雷が落ちて震死(感電死)したとの記事が『本朝世紀』にみえている。事件の詳細については不明であるが、同書翌日条には経光が近江国建部大社の社務を執行した際に非法を行ったことから神罰が下ったとの噂が流布したとある。また、事件当日は経光の妻も側にあったが彼女は奇跡的に無事であり、官子内親王も無事で近隣の藤原定信宅に避難したという。 |
多田行綱 | 多田基綱 |
当初、藤原忠通の下で侍所の勾当として摂関家に近侍したが、後に後白河院の北面武士に加えられる。そして、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀では院近臣の藤原成親らから反平氏の大将を望まれるが、平氏の強勢と院近臣の醜態から計画の無謀さを悟り平清盛にこれを密告、関係者多数が処罰された。事件後、『尊卑分脈』の記述によれば行綱自身も陰謀に加担したとして安芸国に流刑となったとされるが、その真偽は不明である。ただし、この密告の史実については疑わしいとする見方もある。 |
多田源氏の惣領であった父行綱は、源頼朝の粛清により累代の所領多田荘を奪われ没落しており、以降の行綱及びその子らの動向は不明となっているが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると基綱は上皇方として参加し、その敗北とともに討ち取られ梟首されたとの記録が残る。上皇方への参加は多田荘の奪回を図ったものであろうと考えられている。 |
能瀬高頼 | 能瀬資国 |
摂津国能勢庄の開発領主。多田源氏の一族であるが、一族の他の武士達のように京都の情勢に関心を持たず、領地の開発に邁進した人物。多田源氏の嫡流が本拠地の多田から勢力を拡大していないのに対して、彼の時代にすでに、現在の能勢町および豊能町に勢力を拡大していた。それが後の多田氏と能勢氏の勢力の差につながったことから、能勢氏の最大の功労者といえる。 |
治承寿永の乱の後に没落した多田源氏の一族であったが、父の開発した摂津国能勢郡の所領を継承しており、鎌倉期に入ってからも中央官人として蔵人や大学助、豊後守などを務め正五位下に至った。能勢氏の先祖にあたる人物であるが、鎌倉幕府の御家人となっていたかは不明で、承久の乱の際の動向も不明である。 |