清和源氏

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G111 由利維安

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由利維平

由利維久

由利政春

 出羽国を本拠地とした豪族で、藤原泰衡の郎党から御家人となったと見られている。出羽国沿岸中部の由利地方の豪族であったと言われる。由利氏は家伝によれば、大中臣良平が源義家に従い由利半郡を賜ったのが始まりとされているが、清和源氏頼光流とする系図もあり、安倍氏説、中原氏説も存在するなど不明な点が多い。字を中八とすることから大中臣氏説が有力とされている。
『吾妻鏡』に二度登場し、一度目は奥州合戦時に藤原泰衡の郎党として(由利八郎)、二度目は大河兼任の乱時に御家人として現れる(由利中八維平)。八郎と中八の二人を別人とする見解も存在する。
 八郎は、奥州合戦において泰衝の命により、出羽口を田河行文,秋田致文らと守っていたが、鎌倉軍に敗れ、宇佐美実政に生虜りになった。捕虜の身でありながら「運尽きて囚人と為るは、勇士の常」と堂々とした態度で梶原景時の無礼をたしなめ、畠山重忠が礼を尽くすと尋問に応じた。それを見ていた源頼朝も「勇敢の誉れ有るに依って」罪を許した。
 二度目の記載では、大河兼任の乱に際し、文治5年(1189)12月24日、工藤行光,宮六{仗国平らと陸奥国に先発し、小鹿島の大社山毛々左田の辺で討ち死にしたとある。後に戦況報告を聞いた頼朝が、その報告中に「小鹿嶋橘次公成討ち死に由利中八維平逃亡」とあったことに対し、二人の性格から「由利維平討ち死に橘次公成逃亡」の間違いだろうと推察し、そのとおりであったことからその場にいた一同皆驚いたという逸話がある。

 維久は和田の乱に際し、北条氏勢に属して鎌倉の若宮大路で戦った。しかし、かれの放った矢を敵方がとって射返し、その矢が泰時の鎧に立ってしまった。これにより、維久を和田氏に与したと披露するものがいた。戦後、尋問が行われたが、矢に維久の名があり、窮するところとなった。時房の弁護もあったが、結局、所領を召し放たれた。
 子孫は由利地方に土着、滝沢氏と称し由利十二頭の一として後に最上氏、続いて六郷氏の配下となり幕末に至った。

 由利政春が西目に浜館を築き全郡の旗頭と称した。しかし、対立していた鳥海弥三郎に急襲されて落城。鳴沢館を新たに築いて拠ったが、正中元年(1324)再び鳥海勢に攻められて落城、切腹したという。政春のあと、政久にいたり由利郡滝沢に領地を得て、滝澤に名を変えたとされるが定かではない。また政春から政久にいたる世系も諸系図によって整合しない。
由利公正

 福井藩士・三岡義知の長男として越前国足羽郡に生まれる。嘉永6年(1853)に家督相続。福井藩を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。
 慶永が幕府政事総裁職に就任すると、側用人に就任。長州征伐に対する対応では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したものの、支持が得られずに失脚。福井にて蟄居・謹慎処分となった。謹慎中、坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本から藩財政再建の手腕を買われ、新政府への参画を求められている。
 坂本龍馬とは大変気が合ったようで、龍馬2度目の福井来訪時、足羽川近くの山町のたばこ屋旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。当時、謹慎中の公正(三岡八郎)には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。龍馬2度目の福井訪問から約1週間後、公正は福井城下にて足羽川沿いの土手を歩いていたその時、一陣の突風が土手を歩く公正を襲い、懐中に忍ばせておいた龍馬の手紙を落としてしまった。公正が手紙を紛失した時と同じくして京都にて龍馬が暗殺されたという巷談が残る。
 新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869)に辞職するに至った。一方で、五箇条の御誓文の起草にも参画した。
 明治4年(1871)に東京府知事に就任。明治5年(1872)には岩倉具視に随ってヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874)、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書の建白書を提出する。明治10年(1887)、子爵。明治13年(1890)には貴族院議員。明治17年(1894)3月、京都にて有隣生命保険会社の初代社長に就任した。

 

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