清和源氏

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中川重清

中川清秀

中川秀政

 重清は、桓武平氏良文流の後裔という常陸国人の高山重利の次男に生まれ、天文年間に都に上り、ついで摂津国に移って中川清村に仕えた。清村の嫡男清照が戦死して嗣子が絶え、養子となり、清村女を室とした。このとき、「平氏」を源氏に改めた。そして清秀が生まれた。
 重清は稲田城に住し、池田城主の池田勝正に属した。永禄7年(1564)には山崎右馬允、元亀元年(1570)には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降り、以後村重に属した。元亀3年、高槻城主の和田惟政を討ち取って茨木城主となり6万石を領した。
   

 信長に仕えて、同様に荒木村重に属した。しかし、天正6年(1578)、村重が本願寺や毛利氏と結んで信長に背くと、最初は村重に従ったがのちに信長に味方した。この清秀の翻心には古田重然の働きがあった。信長に仕える重然は清秀の妹婿で、懸命に清秀を説得したという。
 また、清秀は熱心なキリシタンとして育ち、幼少から十字架を離さなかったという。その名残りが、中川氏の家紋のちに「中川久留子」とよばれるものに伝わっている。
 天正10年3月、武田勝頼攻めにも従軍、そして6月信長が本能寺で光秀の手によって横死すると、山崎合戦では秀吉に属して先鋒隊の二番に編成され、明智光秀軍大破に戦功があった。翌年、賤ケ岳の合戦では大岩山の砦を守衛したいたが、柴田勝家与力の佐久間盛政に急襲されて討死した。

 秀政は信長の婿となり信長に仕えた。天正11年(1583)家督、13年秀吉より一万石加増のうえ播磨国三木城を賜った。朝鮮の役に渡海。文禄2年(1594)、朝鮮水原城のほとりで鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没した。
 秀政には子がなく家督は、叔父の秀成が継いだ。文禄3年(1594)、三木城を引き払って豊後国岡城に転じた。慶長2年、第二次朝鮮の役に渡海、藤堂高虎とともに六陣にあった”関ヶ原の合戦に際しては豊後に在国したが、家康に通じる証として、同国臼杵城主である石田三成党の太田宗隆と戦い、これを打ち破っている。秀成のあとは久盛が継いで、代々豊後岡を領して、明治維新に至った。
 ちなみに、中川氏が拠った岡城は、瀧廉太郎の作曲で有名な「荒城の月」の舞台でもある。

中川久清

中川久貫

中川久教

 母は久松松平定勝の娘となっているが、実際は安威忠右衛門の女。京都伏見にて誕生。その後、伏見で村井(上笠)五兵衛、吉田四郎左衛門を養育係として育てられる。日本人離れした顔が描かれた肖像画が残されている。
 承応2年(1653)、父の死去により跡を継いだ。藩政を確立するため、家老制度や奉行制度を制定し、さらに検地やキリシタン摘発を目指しての絵踏みを行なった。また、岡山藩から熊沢蕃山を招聘して植林政策や郷村制度の強化を行なった。このようにして藩政を確立すると、寛文6年(1666)5月29日に老齢を理由に長男・久恒に家督を譲って隠居した。しかし隠居してもなお、実権を掌握し続けたと言われている。
 久住連山の一つ大船山を愛し、足が不自由だったため「人馬鞍」と呼ばれる鞍を屈強の男性に担がせて何度も登山した。天和元年(1681)11月初旬、江戸から帰国途中に発病し、11月20日に岡にて死去した。享年67。藩政の確立と教育の普及に努めた名君であり、岡藩中興の英主と言われている。

 文化元年(1804)に豊後一国の地誌である『豊後国誌』を編纂して幕府に献納し、岡藩の学問水準の高さを知らしめている。文化4年(1807)からは横山甚助による藩財政再建を中心とした「新法改革」が実施されたが、専売制や領民に対する重税のために反感を買い、文化8年(1811)には岡藩において大規模な一揆が発生する。しかもこの一揆は臼杵藩や府内藩にも飛び火した。このため、久貴は農民の要求を受け入れ、横山を罷免することで文化9年(1812)に一揆を鎮めている。
 久貴には実子がいたが、正室の満から娘・絢に婿を娶らせて藩主とするよう強要され、譜代大名の名門である井伊氏から久教を養子として迎えて、文化12年(1815)6月に家督を譲って隠居した。

 井伊直弼の兄にあたる。寛政12年(1800)7月1日、近江彦根藩主・井伊直中の七男として生まれる。文化12年(1815)1月29日、岡藩第10代藩主・中川久貴と正室・満の娘・育の婿養子となる。同年6月1日、養父久貴の隠居で家督を継いだ。文化13年4月21日、初めてお国入りする許可を得る。
 文化14年(1817)から幕命による手伝い普請をはじめ、文政6年(1823)大旱魃などにより藩財政が困窮した。このため、文政7年(1824)から倹約令を出して財政再建に努めるが、その後も旱魃や風雨による被害に悩まされ、財政は悪化の一途をたどっている。

中川久昭

 文政3年(1820)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840)12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。
 幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年(1841)に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。
慶応4年(1868)3月11日、上洛した。明治2年(1869)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、知藩事に就任した。同年9月23日、隠居し、長男の久成に家督を譲った。

 

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