G109:源 頼綱 | 源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 中川清深 | G110:中川清深 | ● |
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中川重清 | 中川清秀 | 中川秀政 |
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重清は、桓武平氏良文流の後裔という常陸国人の高山重利の次男に生まれ、天文年間に都に上り、ついで摂津国に移って中川清村に仕えた。清村の嫡男清照が戦死して嗣子が絶え、養子となり、清村女を室とした。このとき、「平氏」を源氏に改めた。そして清秀が生まれた。 |
信長に仕えて、同様に荒木村重に属した。しかし、天正6年(1578)、村重が本願寺や毛利氏と結んで信長に背くと、最初は村重に従ったがのちに信長に味方した。この清秀の翻心には古田重然の働きがあった。信長に仕える重然は清秀の妹婿で、懸命に清秀を説得したという。 |
秀政は信長の婿となり信長に仕えた。天正11年(1583)家督、13年秀吉より一万石加増のうえ播磨国三木城を賜った。朝鮮の役に渡海。文禄2年(1594)、朝鮮水原城のほとりで鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没した。 |
中川久清 | 中川久貫 | 中川久教 |
母は久松松平定勝の娘となっているが、実際は安威忠右衛門の女。京都伏見にて誕生。その後、伏見で村井(上笠)五兵衛、吉田四郎左衛門を養育係として育てられる。日本人離れした顔が描かれた肖像画が残されている。 |
文化元年(1804)に豊後一国の地誌である『豊後国誌』を編纂して幕府に献納し、岡藩の学問水準の高さを知らしめている。文化4年(1807)からは横山甚助による藩財政再建を中心とした「新法改革」が実施されたが、専売制や領民に対する重税のために反感を買い、文化8年(1811)には岡藩において大規模な一揆が発生する。しかもこの一揆は臼杵藩や府内藩にも飛び火した。このため、久貴は農民の要求を受け入れ、横山を罷免することで文化9年(1812)に一揆を鎮めている。 |
井伊直弼の兄にあたる。寛政12年(1800)7月1日、近江彦根藩主・井伊直中の七男として生まれる。文化12年(1815)1月29日、岡藩第10代藩主・中川久貴と正室・満の娘・育の婿養子となる。同年6月1日、養父久貴の隠居で家督を継いだ。文化13年4月21日、初めてお国入りする許可を得る。 |
中川久昭 | ||
文政3年(1820)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840)12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。 |