G104:源 経基 | 源 経基 ― 源 頼信 | G201:源 頼信 |
リンク | G202・G208・G211・G301・G311・G391・G392・G396・G401・G411・G501・G521・G541・G551 |
源 頼信 | 源 頼義 |
---|---|
兄・頼光と同じく摂政関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。 |
頼信の嫡男として河内国石川郡壷井荘の香炉峰の館に生まれ、弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという。 |
源 義家 | 源 為義 |
源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井の香炉峰の館に生まれる。生没とも諸説あるが、68歳で死去とする史料が多く、没年は史料としての信頼性が最も高い『中右記』から逆算し、長暦3年(1039年)生まれとする説が有力である。7歳の春に、山城国の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。 |
叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお、父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。 |
源 義賢 | 源 頼賢 |
保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。 |
次兄・義賢と仲がよく、父子の盟約を交わしたと言われる。久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。 |
源 為朝 | 鳥居禅尼 |
母は摂津国江口の遊女。源頼朝,義経兄弟の叔父にあたる。 |
1140年代に、新宮在庁・社僧として熊野速玉大社の社僧や神官などを束ねていた行範と結ばれる。行範の死後、すぐさま剃髪して鳥居禅尼と名乗り、菩提寺の東仙寺に入り、行範の菩提を弔いつつ、後家として一家の要の位置を占め、子供たちを育てた。 |
源 行家 | |
しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。平治元年(1159年)の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。治承4年(1180年)、摂津源氏の源頼政に召し出され、山伏に扮して以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。なお『覚一本平家物語』によると、行家の動きは熊野別当湛増に気付かれて平家方に密告され、以仁王の挙兵が露見する原因になったという。 |