清和源氏

G104:源 経基  源 経基 ― 源 頼信 G201:源 頼信


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源 頼信 源 頼義

 兄・頼光と同じく摂政関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。
 甲斐守在任時の長元4年(1031年)に平忠常の乱を平定したが、それまで4年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている。この乱の後、坂東の武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。武勇に優れ、平維衡,平致頼,藤原保昌らと「道長四天王」、あるいは「四天王」と称された。
 『古事談』や『今昔物語集』には頼信に関する説話が記されている。墓は、大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺の通法寺跡に、頼義,義家と共にある。 

 頼信の嫡男として河内国石川郡壷井荘の香炉峰の館に生まれ、弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人としてそれぞれ推挙したという。
 長元4年(1031年)の平忠常の乱平定後、小一条院敦明親王の判官代として勤仕し、狩猟を愛好したと伝わる小一条院の側近として重用されている。その一方、官位昇進の面では次弟・頼清に遅れをとり、頼義が相模守として初めて受領に任じられるのは、頼清が安芸守として受領に任じられた5年後の長元9年(1036年)である。
 先に忠常の乱の鎮圧に失敗して将軍を更迭されていた平直方は、頼義の武勇に大いに感じ入り自らの娘を嫁がせ、さらに鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した。頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図ることとなる。
 永承6年(1051年)、前九年の役が勃発。陸奥守・藤原登任は更迭され、後任の陸奥守として頼義に白羽の矢が立ち、朝廷は頼義を陸奥守、さらに鎮守府将軍を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。当初、安倍氏の首領であった安倍頼良は恭順の意を示したが、阿久利川事件をきっかけに再び安倍氏との前九年の役が再開されることとなった。
 戦役の再開により、当初頼義の後任として予定されていた藤原良綱は、戦時となった任国地へ赴くのを恐れ逃亡してしまった為、頼義の陸奥守重任が決定された。その後の黄海の戦いでは、大敗を期し30年来の忠臣であった佐伯経範をはじめとして、藤原景季,和気致輔,紀為清などの多くの家人を失う大打撃を受けたが、出羽に勢力を張る清原氏の兵力を味方に付けることに成功した。小松柵の戦い,衣川関の戦い,鳥海柵制圧と、安倍氏をその本拠地である厨川柵へと退却させた。
 鳥海柵で休息をとった官軍はついに安倍軍の本拠地である厨川柵へと到達した。厨川柵の守りは固く、安倍軍は柵上より官軍を挑発した。そこで頼義は火攻めを決意し厨川柵を焼き上げるに至った(厨川柵の戦い)柵を焼かれた安倍軍は大混乱となり、ある者は官軍によって殺され、またある者は捕縛されていった。官軍から離反した藤原経清も捕縛され、頼義は積年の恨みと、鈍刀にて経清の首を刻み落とした。こうして天喜4年の戦闘再開から8年、鬼切部の戦いから数えれば12年にわたる前九年の役が終結した。
 康平6年(1063年)2月16日、頼義は安倍貞任,藤原経清らの首を掲げて都へ凱旋した。2月25日、除目が行われ、頼義は朝廷より播磨国と並んで全国で最も収入の良い伊予国の伊予守に任じられることとなった。伊予守に昇進した頼義であったが、未だ恩賞を手にしていない将兵のために都へ留まり、彼らの恩賞獲得に奔走した。これにより伊予へ赴任するまでの期間の官物は私費をもって納入したとも言われる。頼義は国府桜井や道前平野周辺(周桑郡,新居郡)を拠点として河野親経と共に伊予国内に8ヶ所の八幡堂を建立した。
 伊予守の任期を終えた後は出家し信海入道と号して余生を過ごし、承保2年(1075年)7月13日に没した。享年88。晩年はこれまでの戦いで命を落とした敵味方のために「耳納堂」という寺堂を建立し、「滅罪生善」に励んだという。その他、河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して、壷井八幡宮と鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身),大宮八幡宮等を創建した。
 墓所は大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺だった通法寺跡にある。 

源 義家 源 為義

 源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井の香炉峰の館に生まれる。生没とも諸説あるが、68歳で死去とする史料が多く、没年は史料としての信頼性が最も高い『中右記』から逆算し、長暦3年(1039年)生まれとする説が有力である。7歳の春に、山城国の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。
 永保元年(1081年)10月14日、白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と2人でそれぞれの郎党を率いて護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。
 12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。官職によらず天皇を警護することが普通のこととなりつつある。後の「北面武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。
 永保3年(1083年)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まる。ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。寛治元年(1087年)11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡,清原家衡を破り、12月には後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、私戦としたため恩賞はなく、かつ翌寛治2年(1088年)正月には陸奥守を罷免される。
 義家は後三年の役から10年後の承徳2年(1098年)に、白河法皇の意向と正月に陸奥守時代の官物を完済したこともあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発している。
 康和3年(1101年)7月7日、次男の対馬守・源義親が、鎮西に於いて大宰大弐・大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す。しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は翌康和4年(1102年)2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害してしまう。12月28日ついに朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定する。
 『中右記』によると、長治元年(1104年)10月30日に義家・義綱兄弟は揃って延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。
 嘉承元年(1106年)には4男の源義国(足利氏・新田氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟・源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で義家に義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に68歳で没する。翌日、藤原宗忠は日記『中右記』に「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と追悼する。死後は3男の源義忠が家督継承し、河内源氏の棟梁となった。

 叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお、父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。
 当初は白河法皇,鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、8男の源為朝の乱行により解官となる。
 保元元年(1156年)、保元の乱では、為義は頼賢,為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の義朝,平清盛らと戦うが敗れる。敗戦後、東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し出家する。義朝は自らの戦功に代えて、為義と弟たちの助命に奔走するが許されず、一族の未来を義朝に託して7月30日に義朝の手で斬首された。享年61。

源 義賢 源 頼賢

 保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。
 翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解官される。このために、為義は弟である4男・頼賢に嫡男の地位を譲らせる形で義賢を事実上の廃嫡にせざるを得なくなった。
 その後、藤原頼長に仕える。康治2年(1143年)頼長の所有する能登国の預所職となるが、久安3年(1147年)年、貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている。
 京堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶る。重隆の養君として武蔵国比企郡大蔵に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす。為義・義賢は秩父氏・児玉氏一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたとみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる。
 久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能,斎藤実盛らの計らいによって信濃木曾谷の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)となる。また、京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。

 次兄・義賢と仲がよく、父子の盟約を交わしたと言われる。久寿2年(1155年)、義賢が甥・義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽法皇領を侵犯する。これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。
保元の乱では為義に従い、崇徳上皇,藤原頼長方として活躍。義朝軍を相手に奮闘するが、崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後、捕らえられ、義朝の手によって船岡山において斬首された。
 子の淡路冠者・源義久は、1183年に従兄弟の源義嗣と共に淡路国で平教経と戦うが、義久は捕虜にされてしまった(六ヶ度合戦)。 

源 為朝 鳥居禅尼

 母は摂津国江口の遊女。源頼朝,義経兄弟の叔父にあたる。
 身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。

 1140年代に、新宮在庁・社僧として熊野速玉大社の社僧や神官などを束ねていた行範と結ばれる。行範の死後、すぐさま剃髪して鳥居禅尼と名乗り、菩提寺の東仙寺に入り、行範の菩提を弔いつつ、後家として一家の要の位置を占め、子供たちを育てた。
 鳥居禅尼は治承・寿永の乱後、乱中の数々の功績によって、甥に当たる将軍・源頼朝から紀伊国佐野庄および湯橋、但馬国多々良岐庄などの地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人になった。
 承元4年(1210年)、幕府は鳥居禅尼の願いをいれ、これらすべての知行地の地頭職を養子に譲補することを認めた。養子の名前はわからないが、行詮の子の行忠か長詮が養子とされたと思われる。
 新宮別当家は、こうした鳥居禅尼の働きにより鎌倉将軍家の一族として手厚く遇され、熊野三山内外にその勢力を伸ばしていったものと思われる。鳥居禅尼は女性のため別当にこそなれなかったが、熊野三山統轄機構の中枢部にいた夫の行範や義弟の範智、それに娘婿の湛増、さらには子や孫を通じてその影響力を大いに発揮した。1210年頃、かなりの高齢で死去したと伝えられる。 

源 行家

 しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。平治元年(1159年)の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。治承4年(1180年)、摂津源氏の源頼政に召し出され、山伏に扮して以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。なお『覚一本平家物語』によると、行家の動きは熊野別当湛増に気付かれて平家方に密告され、以仁王の挙兵が露見する原因になったという。
 甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向した。三河国,尾張国で勢力圏を築きつつあったものの、養和元年(1181年)、尾張国の墨俣川の戦い、三河国矢作川の戦いで2回に亘り平重衡ら平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れて相模国松田に住み着いた。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立、以降はおなじく甥の源義仲の幕下に走っている。義仲の下では能登国の志保山の戦いに参加、上洛に当たっては伊賀方面から進攻し平家継と合戦を演じた。
 寿永2年(1183年)、義仲とともに入京、後白河院の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、従五位下・備後守に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに備前守に遷任する。さらに平家没官領のうち90ヶ所余りを与えられている。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族らの不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。播磨国で平知盛・重衡軍との室山の戦いでまたしても敗北を喫し、河内国の長野城へ立て籠もったが、そこでも義仲が派遣した樋口兼光に敗れて紀伊国の名草へ逃げ込んだ。生来交渉力があり、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかった。
 義仲が頼朝の派遣した頼朝の弟の源範頼・義経兄弟の軍勢に討たれた後、行家は元暦元年(1184年)2月に院の召しによって帰京している。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって和泉国と河内国を支配していた。元暦2年/文治元年(1185年)8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け、「四国地頭」に補任される(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する武士団は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。途中で、同族である摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けこれを撃退するも(河尻の戦い)、大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守・清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏する。翌文治2年(1186年)の5月、地元民の密告により露顕し、鎌倉幕府から命を受けた北条時定の手兵によって捕らえられ、山城国赤井河原にて長男・光家,次男・行頼とともに斬首された。40数歳だったという。