清和源氏

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源 義親

 前九年の役,後三年の役で活躍し「天下第一の武勇の士」と尊崇を集めた父譲りのつわもので、悪対馬守(悪対馬守義親)と呼ばれた。
  従五位下に叙せられ左兵衛尉、ついで対馬守に任じられるが、九州を横行して人民を殺害し略奪を働いた。康和3年(1101年)に大宰大弐・大江匡房から訴えがあったため、朝廷で追討が議される。父の義家は郎党・藤原資道を遣わして召喚を試みるが、資道は義親を説得できず逆に義親に従ってしまい官吏を殺害するに至った。
  康和4年(1102年)、朝廷は義親を隠岐国配流とする。だが、義親は配所には赴かず、出雲国に渡って目代を殺害し官物を奪取した。このため、いよいよ義家が自ら息子の追討へ赴かねばならない状況になったが、嘉承元年(1106年)に義家は死去した。
  嘉承2年(1107年)12月、朝廷は平正盛を追討使に任じた。嘉祥3年(1108年)正月には、はやくも正盛は義親を誅したと報告。正盛は京へ凱旋し、朝廷より恩賞が授けられ、義親は梟首とされた(源義親の乱)。
  河内源氏では内紛が起こり、天仁2年(1109年)義家の子で、義親の弟であり家督を継いだ義忠が暗殺された。その嫌疑を受けた義綱(義家の弟)が為義(義親の子、一説では義家の子)の追討を受け、一族は滅ぼされ、義綱は佐渡国へ流罪となった。為義が家督を継ぐが源氏は凋落し平氏が台頭する。
  しかし、剛勇で知られた義親が、それまでさしたる武功のなかった正盛に簡単に討たれたことは当時から疑問視されていた。義親生存の噂が流れ、義親と名のる人物が乱の20年以上後まで幾度となく現れており、それらは捕えられたり殺されたりした。
  平家物語冒頭の「傲れる者も久しからず」の例として挙げられている。

   

 

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