清和源氏

G301:源 義親  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義親 ― 源 義信 G302: 源 義信

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源 義信 源 義実(延朗)

 源義親の長子として生まれるが、義親が西国で乱行を起こしたため、家督は異母弟の為義が叔父の義忠の養子となって継承した。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。
  武士として目立った活動は見られないが、官途は為義より高く最終的に従四位下左兵衛佐となっている。なお、為義を河内源氏の棟梁とする概念が生まれるのは源頼朝が鎌倉幕府を開く前後からであり、当時は源氏各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある。また、為義は義信の弟ではなく叔父であるとする説もある。

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。松尾上人と号す。大治5年(1130年)但馬国に生まれる。幼名を徳寿丸といい、長じて小太郎義実を名乗る。天養元年(1144年)、15歳で出家。以降、延暦寺や園城寺にて天台宗を学び、顕教・密教両面の内典・外典に通じた碩学ぶりをもって知られた。安元2年(1176年)には、京都・最福寺の創建を果たし、同寺のあった地名に因んで松尾を号とした。
  文治年間、元は平重衡の所領であった丹波国篠村庄を賜った源義経の申し出により、同庄の寄進を受ける。初めは固辞した延朗であったが、一旦引き受けた後は、領内の農民の年貢を停止し、代わって念仏を奨励し、その唱えた回数に応じて年貢の受け取り状を交付した。義経が朝敵として追われた後は、源頼朝に同庄の返上を申し出るが、それには及ばないとされ、文治2年(1186年)、頼朝の使者豊島有経を通じて、改めて同庄を賜った。
  承元2年(1208年)、79歳にして入寂した。