清和源氏

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塩谷頼純 塩谷惟純 塩谷朝義

 喜連川塩谷系譜によれば、天仁元年(1108年)正月に父・義親が討たれた後に、摂津国堀江で生まれたとされる。生後は、父・義親の遺領である摂津国堀江荘に住したが、喜連川塩谷系譜によれば、生後まもなく流罪により、塩谷の地に下ったとされる。矢板市史では、大治5年(1130年)頃に塩谷に下ったと推測しているが、この場合、頼純との没年の整合性を検討しなければならない。
  「堀江記」「堀江物語絵巻」等によれば、頼純の妻・弥生が美人であったため、時の下野国司に見初められ、これを奪うべく弥生の父・原重房をそそのかし、武蔵国と相模国の境にある上田山で、頼純は、重房に討ち取られたとされる。

 3歳の時に父頼純が母方の祖父原重房の謀略によって殺害され、母の弥生も自害する不遇があり、弥生は自害の寸前、月若丸を乳母の更科に託し、更科は、陸奥国岩瀬の郡司岩瀬権太夫の養子として月若丸を預けた。月若丸は、その事実を知らぬまま育ち、13歳の時に岩瀬太郎家村と名乗って元服するが、15歳の時、更科は、その死の間際に真相を明かし、月若丸は、岩瀬権太夫の助力を得て軍勢を起こして上洛。朝廷の許しを得て、父を討った原重房の討伐を敢行する。
 月若丸は、父の旧臣長井次郎安藤太などの力を得て重房を打ち破り、母方の祖父である縁から死罪は許して追放して(堀江記では、重房の首を鋸引きにして落とし父母の墓前に供えたとする)、本領である塩谷郡に復帰。塩谷荘三十三郷三万八千町を支配する。この際、居城を矢板城においたという伝承もある。

 源姓塩谷氏(堀江氏)の五代目で最後の当主。兄である正義に子が無かったため、兄より家督を譲られ当主となる。これが具体的にいつかは分からないが、建久元年(1190年)前後の出来事と考えられている。しかし、本人も嗣子に恵まれなかったため、宇都宮氏より養子を迎えて娘婿とし、この養子の朝業に家督を継がせている。宇都宮氏は藤原姓であるため、これを以って源姓塩谷氏の嫡流は断絶し、以後、塩谷氏は藤姓となる。この時期については、朝業の領地のひとつであった下伊佐野の箒根神社の由緒沿革によれば、建久2年(1191年)に下伊佐野一帯が朝業の領地となり、免地高二石二斗を寄進されたとあり、この頃か、少なくともこの時以前には、家督を継いでいたものと考えられている。
塩谷朝業 塩谷教綱 塩谷隆綱

 宇都宮氏宗家4代当主宇都宮成綱と平忠正の孫娘を父母に持つ。後継者の無い塩谷朝義の養子として塩谷氏を継ぐ。
 承安4年(1174年)1月24日(旧暦)に生まれ、建久3年(1192年)に父・業綱が夭逝、2年後の建久5年(1194年)5月には祖父・朝綱が下野守野呂行房より公田横領を訴えられ、同年7月には朝業も連座の咎で周防国国府へと配流される。この時、朝綱は土佐国、兄・頼綱は豊後国へ流されている。源頼朝の働きかけがあったか、早いうちに赦免され帰国する。なお一説に実際には周防国には行かなかったとされる。
 朝業は塩谷郡における宇都宮氏族の防衛基盤を構築する傍ら、建仁3年(1203年)に第3代将軍となった源実朝に仕えて歌詠みの相手となる。吾妻鏡によると、建暦2年2月1日(1212年3月12日)に実朝が梅の花を一枝折って送り人知らずで朝業に届けさせると、朝業は直ぐに実朝の仕業と解し「嬉しさも匂いも袖に余りける、我が為折れる梅の初花」と一首詠んで追奉したとある。朝業と実朝は身分を越えて親しい間柄となり、建保7年1月27日(1219年2月20日)に実朝が公暁に暗殺されると、塩谷に戻り出家して信生と号し隠遁した。その後半生は歌人として信生法師日記を著すなど、兄・頼綱入道蓮生法師と共に宇都宮歌壇を創成し、また高僧法然を畏敬してその弟子の証空に師事し、文人・宗教人として京で暮らした。
嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、信生(朝業)と兄の蓮生(頼綱)の他、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。

 応永30年(1423年)8月9日、主君である宇都宮持綱を狩猟に誘い、自国領である幸岡の地で殺害する。これは、宇都宮氏の家督相続の政争に敗れた教綱が、これを恨み、当時宇都宮持綱と対立していた鎌倉公方足利持氏と通じて起こした謀反であった。
 この事件以降、宇都宮氏と塩谷氏は対立する。教綱は、事件の後、宇都宮氏の居城である宇都宮城を勢力下においたが、永享10年(1438年)に宇都宮城を宇都宮等綱に奪還され、教綱の後ろ盾であった足利持氏が足利将軍家の家督相続争いに敗れ、永享11年(1439年)2月10日に永享の乱に敗れて自害し、鎌倉公方が事実上滅亡すると教綱の勢いは衰退していく。
 康正2年(1456年)、足利持氏の子成氏が宇都宮城を包囲して落城させると、宇都宮等綱が宇都宮城から落ち延び、その子明綱が成氏の擁立により宇都宮氏の家督を継ぐと、宇都宮氏は成氏方となり、教綱の勢いも再び盛り返したかのように見えたが、長禄2年(1458年)5月8日、宇都宮氏の計略により宇都宮城に入ったところを襲われ殺害される。この時、宇都宮等綱は、奥州白河にいて存命しており、反成氏方として暗躍、またこの年(あるいは前年の長禄元年(1457年))、成氏と対立する室町幕府が、新たな関東公方として足利政知を下向させており、これらの勢力の連携による計略により、暗殺されたものと考えられている。享年53。
 教綱が宇都宮持綱を殺害したのは、18歳の時であるが、この時、父の秋綱は34歳、祖父の光綱も53歳で健在であり、殺害の当事者は教綱であった事は間違いないが、家督を継いでいたものとは考え難く、主謀は、父の秋綱,あるいは祖父の光綱であったと考えられている。

 長禄2年(1458年)5月8日、教綱の死後に家督を継ぐ。それから2年後の寛正元年(1460年)4月18日には、那須方の福原勝馬が支配していた沢村城を攻めて落城させ、勝馬を打首にして、家臣の大沢氏を沢村城代としている。文明5年(1473年)7月7日には、沢村城に那須方から送り込まれた間者を退け、時の城代一族であった大沢氏に加増し、その後、山本兵庫守を沢村城代としている。また、文明10年(1478年)には、家臣の大沢淡路守に金沢の地に野沢城を築かせ、1年ほどの期間、那須勢と戦っている。
 この間、塩谷氏はそれまで対立していた本家筋に当たる宇都宮氏と和睦し、隆綱は、文明10年(1478年)1月7日に、時の宇都宮当主である正綱の四男弥六郎(後の塩谷孝綱)を養子にして家督を継がせている。延徳元年12月28日、隆綱は没した。享年51。
 隆綱については、秋田塩谷系譜には明記されているが、その他の資料や系図においては、ほとんど登場しないため、父の教綱の殺害により塩谷氏は断絶し、後に孝綱が塩谷氏を再興したとし、隆綱の存在を否定する説もある。しかしながら、この場合、教綱が没した1458年から、孝綱が塩谷氏を継ぐ1480年代半ば以降までの20年以上の期間、塩谷氏の家督は空白となり、少ないながらも、その間の塩谷氏の事績について、矛盾が生じる事になる。それらの事績には、年代に疑いがある事績や、やや信憑性に乏しいものもあるが、『慈心院造営日記』を始めとした信頼に足る資料もあり、これらの塩谷氏の事績の当主として、隆綱は存在したと考えられている。

塩谷惟広 塩谷惟義 塩谷惟縄

 源平合戦(治承・寿永の乱)において、その一族として源氏側として参戦し、元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いや文治元年(1185年)2月の屋島の戦いで戦功があり、塩谷荘に三千町の領地を賜り、大蔵ヶ崎城を築いて居城とする。
 その後、文治5年(1189年)の奥州藤原氏の征伐にも参戦し、この時、従五位下安房守の官途を賜っている。
 惟広がいつ頃没したかは不明だが、吾妻鏡によれば、建保元年(1213年)5月2日に惟広の子塩谷三郎惟守が和田義盛に味方して討死したとの記述があることから、これ以前には、没していたと考えられている。

 喜連川塩谷氏三代目当主。初代塩谷惟広の三男として生まれる。建保元年(1213年)、兄惟守が和田合戦において討死すると、嗣子の無かった兄の跡を継いで喜連川塩谷氏の当主となる。伝わる事績はほとんど少ないが、兄惟守が和田義盛に呼応して謀反したため、喜連川塩谷氏は鎌倉での地位を失い、惟義の時代の喜連川塩谷氏は、衰退していったものと考えられている。ただし、吾妻鏡によれば建長2年(1250年)3月1日には、閑院内裏造営の造営役を命じられており、謀反後もそれなりの地位を維持してはいたと考えられている。また、この時、惟義の名は「塩屋(塩谷)兵衛入道」となっており、出家している事から、この時には子の惟縄に家督を譲っていたものと考えられている。惟義の没年は不明である。

 喜連川塩谷氏の四代目当主。父惟義の跡を継いで当主となる。塩谷氏は、もともとは河内源氏から派生した一族であったが、本家の塩谷氏は、藤原姓(中原姓,下毛野姓の説もある)である宇都宮氏から養子を迎えて藤姓となり、源姓塩谷氏の血統は惟縄の祖父惟広の子孫によって辛うじて守られていたが、惟縄の伯父惟守が和田合戦で和田義盛に加担して討死すると、源姓塩谷氏は鎌倉での地位を失い急速に衰退していった。
 そして、失われた地位や勢力は回復される事なく、惟縄は嗣子にも恵まれず、ついに藤姓塩谷氏から塩谷忠朝を婿養子に迎え家督を継がせる事になった。これにより、喜連川塩谷氏においても源姓から藤原姓に変わり、惟縄を最後の代にして、ここに源姓塩谷氏の血統は断絶した。

塩谷孝信

 喜連川塩谷氏の養子となり家督を継ぐ。
 永禄7年(1564年)10月7日の夜、孝信は精鋭の16騎の家来とともに、実家である塩谷氏の居城川崎城に侵入し、実家の家督を継いでいた兄の義孝を殺害し、川崎城を占領した。これは、孝信の妻が、那須氏の重臣大関氏の娘で、当時、塩谷氏と那須氏は対立しており、那須氏に加担して起こした事件であった。この時、孝信は、予め川崎城の大手門の門番である木村和泉に内通し、木村和泉の手引きにより、難なく川崎城に侵入した。木村和泉は、川崎城の支城である沢村城の城代を務めたほどの重臣で、義孝も長刀を振るい奮戦したが、信頼していた重臣に裏切られては成す術がなかった。
 この時、義孝の子である弥六郎も城にいたが、重臣の大沢隼人康勝に救出され、同じく重臣の山本上総介義宗の宇都野城に逃れているが、2年後の永禄9年(1566年)、弥六郎は那須氏と和睦し、その那須氏と主家である宇都宮氏、さらに宇都宮氏の同盟国である佐竹氏の支援を得て、孝信の篭る川崎城を百日あまり攻め、孝信は川崎城を落ち延びている。
 義孝殺害の後、孝信は完全に那須方になり、宇都宮氏や塩谷氏と対立を続けた。天正13年(1585年)3月25日の宇都宮氏と塩谷氏の連合軍と那須氏が激突した薄葉ヶ原の戦いでも那須方につき、孝信は100騎の軍勢を率いて参戦し、那須氏の勝利に貢献している。その翌年に孝信は没する。