清和源氏

G305:塩谷頼純  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義親 ― 塩谷頼純 ― 塩谷孝綱 G306:塩谷孝綱

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塩谷孝綱 塩谷由綱(義孝)

 宇都宮正綱の4男として生まれ、塩谷隆綱の養子となり、延徳元年(1489年)12月28日、隆綱の死とともに塩谷氏の家督を継ぐ。塩谷家と宇都宮家は断絶していたが、この養子縁組は両家の和睦のために行われた意味合いが大きい。
 永正6年(1509年)、那須資房が、塩谷家臣である大貫石見守,印南修理進,油井筑後守と三者の一族に通じ謀反させ、孝綱を討とうとする謀略を企てる。しかし孝綱側はこれをいち早く察知し、孝綱はこれを重く罰しようとするが、家臣の安藤光忠の進言により、三者とその一門計13名に二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させ、これを許した。孝綱が塩谷家の家督を継いだばかりの頃は、家臣の中でこれに反発する者が多かったが、この事件をきっかけに塩谷家臣団は、孝綱の下にまとまっていった。
 孝綱の時代、塩谷家はその勢力を拡大、喜連川塩谷氏との争いでは大永3年(1523年)11月7日に和睦という形で、喜連川塩谷氏の支城である乙畑城を手に入れ、次男の塩谷義尾を乙畑城主にし、その弟の孝信を喜連川塩谷氏の養子として家督を継がせ、その支配はかなり安定していた。また、数多くの寺社に寄進をしており、財政的にも安定していたと見られている。
 この時期の孝綱は、塩谷荘の他に宇都宮領最南端である小金井宿一帯の支配も任されていた。他にも芳賀氏との関係も緊密であり、芳賀高孝は孝綱から「孝」の一字を拝領し、芳賀孝高に改名している。また、天文5年(1534年)に出家し道的と法名を名乗った芳賀高経との関係も非常に緊密であり、両者は同じ僧侶と師壇関係を持ち、兄弟弟子の関係であったとされる。
 天文8年(1537年)に宇都宮氏で天文の内訌が発生すると、孝綱は芳賀高経に与して宇都宮俊綱,壬生綱房,壬生綱雄と敵対する。孝綱が宇都宮氏惣領家と敵対した理由の1つには芳賀氏との緊密な関係を築いていた背景が影響していたという。高経が俊綱によって自害させられた後は、那須高資と連携して宇都宮氏に攻撃をしていたという。天文15年(1546年)10月19日、77歳没。 

 永正11年(1514年)以前に父・孝綱の隠居により家督を継ぐ。天文15年(1546年)10月19日に孝綱が没すると、弟の孝信が喜連川塩谷氏の養子となりその家督を継いでいたが、義孝と孝信の関係が徐々に悪化していく。この時、義孝は宇都宮家から正室を迎えているが、孝信は宇都宮氏と対立する那須氏の家臣大関氏より妻を迎えていたため、これをきっかけに不和になったと言われている。
 義孝が塩谷家の当主となって以降、沢村城やその周囲の土地を中心に、塩谷氏と那須氏の対立が激化するが、義孝の時代は、塩谷側がやや有利な状況であった。しかし、那須側であった弟の孝信は、永禄7年(1564年)10月7日夜、義孝の居城である川崎城に16騎の精鋭とともに侵入し、孝信に寝返った木村和泉が城内にいて手引きし、本丸で就寝していた義孝は孝信の手勢によって殺害される。木村和泉は、沢村城代にも名を連ねる義孝が信頼する重臣であった。享年77。 

塩谷義通 塩谷保真

 塩谷氏の当主・塩谷義孝の長子として生まれるも、母親が側室であったため、庶子として扱われている。しかし母親は、塩谷氏の有力重臣である岡本氏の出であったため、時の実力者である岡本正親の支援を受けて育つ。元服すると、塩谷氏の居城のひとつである御前原城代となり、父の義孝も伊勢松丸を後継者としていたと考えられている。
 しかし、永禄7年(1564年)10月7日、父・義孝が、実弟の塩谷孝信によって殺害され、居城の川崎城を奪われると状況は一変する。義通は、岡本正親の支援を得て川崎城の奪還を目指すが、義通の弟だが義孝の正室の子であったため嫡子扱いを受けていた義綱は、母の実家である宇都宮氏やその盟友である佐竹氏の支援を受けて川崎城を奪還し、塩谷氏の家督は義綱が継いでしまう。
 その後、義通は歴史の表舞台から姿を消すが、岡本正親の保護を受け、その娘を妻に迎え、義保,保真,保忠の3人の男子に相次いで恵まれる。そして、塩谷氏における復権の機会に恵まれず、同時に嫡子を2人も失って後継者を無くしていた正親の勧めもあり、義通は3人の子を正親の養子として預ける。
 すると正親は、天正18年(1590年)に小田原征伐をきっかけにして、豊臣秀吉から泉十五郷を与えられ塩谷氏から独立。この泉十五郷には、義通が城代を務めていた御前原城がある中村郷と、塩谷氏が氏神として信仰していた木幡神社のある木幡郷があり、合わせて約1000石の領地を以て義通も独立して御前原城に入る。さらに文禄4年(1595年)2月8日には、義綱の塩谷氏が秀吉により突如改易され、義通が実質的に野州塩谷氏の家督を継承する形になった。思わぬ形で復権となった義通は、長男・義保が正親の後継者として岡本氏を継いだため、慶長2年(1597年)頃、元服間もない次男の保真を塩谷惣十郎と名乗らせ、野州塩谷氏の家督を継がせる。そして、翌年の11月1日に52歳で没する。
 塩谷氏の嫡流に継承された塩谷氏の系譜(秋田塩谷系譜)には義通の名は見えない。しかし、岡本記によれば、秋田塩谷系譜において義綱の前当主に塩谷通綱という者が家督を継いだことになっているが、この通綱の子が義通であるとする系譜が存在する。しかし、生没年を比較すると、塩谷通綱と義通の親子関係が成立しないため、一説には、この通綱が義通であるとも言われている。 

 塩谷義通の次男として生まれる。兄・義保が、母方の実家である岡本家を継いだため、慶長2年(1597年)頃、塩谷惣十郎と名乗り、父・義通の塩谷家の家督を継ぐ。この年、保真は、祖父の正親と兄とともに上洛し、豊臣秀吉に謁見している。保真は武勇に優れ、特に小太刀の名人として知られており、大坂の陣では、兄とともに徳川方として出陣し、兄と合わせて31の首を挙げる活躍を見せている。
 保真は、約1000石の旗本として幕府に仕えるが、寛永21年(1644年)3月10日、甥の岡本義政の謀略により殺害される(泉騒動)。この時、義政の弟・万吉と保真の養子縁組の話が決まっていたが、この際、岡本本家から保真に1000石が分知される約束になっており、財政的に苦しかった義政がこれを嫌ったために起きた事件であった。この事件をきっかけに岡本家は改易されたが、保真の3男・保正は、桜田御殿に仕えて、のちに30俵扶持の幕臣となった。

塩谷奉正 塩谷正義

 塩谷義通流塩谷氏の6代目。塩谷明正の嫡男として生まれる。江戸幕府の御家人として、寛延3年(1750年)12月16日御勘定に列し、宝暦2年(1752年)2月12日に検地のために関東諸国を回った。宝暦7年(1757年)10月8日に家督を継ぎ、翌年の7月2日には関東及び甲斐,美濃,伊勢等の河川の普請に従事し、この功により時服2枚,黄金2枚を賜った。
 寛政7年(1795年)4月14日、老身を理由に引退して小普請となり、同年5月17日に没した。享年77。
 天明6年(1786年)に嫡男・正房が33歳という若さで奉正に先立って没すると、正房の遺児である鉄之丞を養子とするが、鉄之丞も間もなく病死した。次男・正住は病者のために家督を継げず、3男・正英(鈴木正誼)は既に養子に出しており、家督を継ぐ者がなくなった。奉正は弟の正澄の娘や嫡男・正房の妻の父・中村孝邦の娘(正房室の妹)を養女としており、正房が亡くなった後は正房の娘も養女としていた。正房の死から2年後の天明8年(1788年)、養女としていた正房の娘おかねの婿として、鳥見役粟津家の粟津清喬の次男(庶子)を養子に迎えて跡継ぎとした。塩谷正義(塩谷大四郎)である。 

 塩谷奉正の養子となった正義は、24歳となった寛政4年(1792年)正月26日に切米百俵の御勘定として採用される。同期生は10人で、翌年の10月には、京都から勅使・院使の下向という盛事があり、正義は、公家衆賄向き取締を申し付けられた。これを無事に果たすと、その年から3年間に渡り同じ役目を任せられ、正義は、これらを無難にこなし、その評価を高めていった。
 寛政7年(1795年)5月17日、養父・奉正が没すると、同年8月3日、幕府の許しを得て家督を相続した。ちなみに、『徳川実紀』によると、火付盗賊改方で有名な長谷川宣以も同年同日に正義とともに家督を継承しており、この時に正義,宣以も含めて10人の家督相続が認められている。そして、家督を継いで28歳となっていた正義は、寛政8年(1796年)1月14日、それまでの業績が認められ、同期生10人の中で先頭を切って勘定吟味方改役に任命され、家禄も毎月10人分の扶持米が追加された。それから約1ヶ月後、日光東照宮や家光廟、その他の諸房の改修が行われることになり、これに正義も参加することとなり、ここでも業績を挙げた正義は寛政10年(1798年)6月22日、恩賞として黄金2枚を賜り、さらに寛政12年(1800年)3月14日、32歳になった正義は丹後・但馬にある天領合わせて5万石の代官に任命され、飛躍的な出世を遂げた。
 久美浜代官時代,大坂代官時代,日田代官時代,西国郡代時代と各地で民衆のために善政を行った。天保6年(1835年)8月20日、正義は、幕府より召喚の命を受けて、同年9月24日江戸に戻った。正義の事業で大きな負担を強いられた富豪の一人が、不満を持つ者たちの代表として幕府に直訴したためであった。正義が江戸に戻ると、幕府による審問が行われた。しかし、正義の功績を評価していた幕府は、最終的には正義に日田帰任を勧めた。だが、この頃の正義は高齢もあって体力が落ちており、この一件で気力も失い、もはや西国郡代を続けられるような心身の状態ではなくなっていた。そして、正義の子である正路が、正義の江戸在勤を幕府に願い出て受理され、正義は、西国郡代の任を解かれ、天保7年(1836年)3月4日に江戸城二の丸留守居役を命じられた。そして同年9月8日、牛込の自宅において家族に看取られ、68歳で正義は没した。