G202:源 頼信 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義隆 | G396:源 義隆 |
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源 義隆 | 毛利義広 |
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義家の子の中で一番の長命であり、一族の長老として尊崇を集める。相模に所領を持つ。 |
父以来の相模国愛甲郡毛利庄を相伝し、鎌倉幕府の御家人となる(源姓毛利氏の祖)。子孫は美濃国に至り、摂津源氏系の美濃源氏の土岐氏をはじめ、斎藤氏,織田氏,豊臣氏,徳川氏と主家を転じ、尾張藩の藩士となる。 |
毛利広盛 | 毛利広義 |
当初、美濃斎藤氏に仕えていたが、織田信秀の家臣に転じ、その後、織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,徳川義直に仕える。最終的には尾張藩士となって先祖代々の地を安堵され、尾張藩の重臣として重要な役割を果たした。先祖は毛利義広といわれ、源姓毛利家13代当主となる。広盛と同じく斎藤家から織田家へと転じた森氏の当主・森可成とは同じ祖先を持つ関係にある。 |
広義は八神村に住い、名古屋に出仕した。元和5年(1619年)10月12日死去。 |
若槻頼隆 | 若槻頼胤 |
平治の乱で父・義隆が討ち死にし、生後間もなかった頼隆も捕らわれて、関東の豪族・千葉常胤の下に配流される。かねて源氏に同情の念をもっていた千葉氏は頼隆を庇護し大事に育てた。頼隆の兄弟は明らかではないが、三郎という名から3男であったと考えられる。長兄が毛利義広となり、次兄は武蔵の武士団、私市党に庇護され久下氏の養子に入り久下直光となった。弟は高松定隆で南北朝時代に南朝方として北畠顕家の配下として活躍した高松氏の祖となる。 |
頼胤は下総守を称して千葉氏に仕えた。子の頼広は押田氏の祖となる。押田氏は千葉氏の庇護を受け、子孫は千葉氏に近侍、江戸時代には幕府の旗本となる。江戸幕府12代将軍・徳川家慶の生母である香琳院は押田氏の娘である。また、若槻姓を受け継いだ子孫は信濃国の国人となり、後に村上氏の配下となる。 |
押田直勝 | 押田於楽 |
北条氏の旧領に徳川家康が入部し、押田豊勝が徳川氏に召し出されると、押田氏はしだいに家運を上げ、押田直勝の代に至り、用人として登用され常陸国茨城郡に知行を与えられる。さらに、直勝は5代将軍・徳川綱吉の嫡男・徳松の傅役に抜擢され、江戸城西ノ丸に移り、上総国夷隅郡に300石を加増されて、総計2,200石を知行する大身となった。押田氏は代々、旗本として存続する。
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押田氏の家運が最も高まったのは、10代将軍・徳川家治に仕えた押田勝長の代である。勝長は徳川家斉に仕えていたが、於楽は天明7年(1787年)に大奥に入り、最初は家斉の義妹・種姫の婚儀に従って紀州藩の奥向きに仕えた。大奥に復帰後に第11代将軍・徳川家斉の側室(於楽御方)になり、さらに寛政5年(1793年)に12代将軍・徳川家慶を生み香琳院と称された。次いで御年寄上座に昇進し、また家慶が将軍世子となったため、次期将軍の生母として大奥の女中たちから畏敬されるに至る。文化7年(1810年)5月20日、家慶の将軍就任を待たずに病没した。墓碑は東京都台東区谷中の徳川家墓地に現存する。 |