清和源氏

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源 義忠 稲沢盛経

 源義家の3男として香呂峰の館で誕生。河内源氏の棟梁の中で河内守に任官した最後で、以降の棟梁は河内守にはなっていない。
 嘉承元年(1106年)に父が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得ず衰退期を迎えた。
 義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし平家との和合をはかり、また妻の弟で正盛の嫡男の烏帽子親となって「忠」の一字を与え「平忠盛」と名乗らせるなど、親密な関係を築いた。そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。その結果、「天下栄名」と評せられる存在となった。しかし、河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満も多く、伊勢平氏と和合することで院政に接近した義忠が勢力を伸ばしたことを快く思わない源氏の一族の勢力も存在した。
 義忠の叔父の源義光は自らが河内源氏の棟梁になることを望み、家人で長男、源義業の妻の兄である鹿島三郎に義忠を襲わせた。天仁2年(1109年)2月3日、義忠は三郎との斬りあいで重傷を負い、それが元で2日後に死去した。享年27。三郎は義光の兄弟である園城寺の僧侶・快誉の下へ逃げて保護を求めたが、快誉によって殺害された(源義忠暗殺事件)。
 義忠の暗殺は当初、従弟で叔父(義光の兄)源義綱の子・源義明とその家人・藤原季方の犯行とされたため、義忠の甥(弟という説もある)・源為義は義綱の一族を甲賀山に攻め、義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へ流された。しかしその後になって義光の犯行であったことがわかった。これにより河内源氏は義忠,義綱という2人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸に逃亡。都には為義が残されることとなり、後見人のいない源氏は衰退した。義忠の死後は為義が河内源氏の棟梁となったが、為義も少年であったために、河内源氏は伊勢平氏の蔭に隠れてしまう。

 祖父は河内源氏嫡流であった源義忠、祖母は伊勢平氏であり、源平合戦と呼ばれた時代に源家,平家両氏と縁があった。父の経国は父方の一族源義朝に従って保元の乱に参陣しているが、盛経が平治の乱や源頼朝の挙兵の際にどのような行動をとったかは定かではない。
 一部の史料では、従兄弟の子(父の弟である源忠宗の孫)で平家の侍大将飯富季貞に従い、一族(祖父の源義忠の弟である源義時の子)で先祖伝来の河内国石川荘の地を継承した石川源氏の源義基らを討伐したとされる。治承寿永の乱では、倶利伽羅峠での戦いか、続く篠原の戦いで討ち死にしたという記録もあるが、壇ノ浦の戦いで捕らえられたともいう。
 稲沢小源太の由来は稲沢は領地の地名というが、その所在は明らかでない。また、一部の史料では河内判官という号が見えるが、父の経国、祖父の義忠も同じ号を持っていることから襲名したか誤伝と思われ、官位との関係はないと思われる。北面武士であったという記録もある。確認できる官位は従六位下兵庫大允のみであり、多くの史料には「散位」と官職は記されていない。
 盛経の子らの活動は不明な部分が多く、歴史の表舞台に現われるほどの存在ではなく没落していったものと思われる。ただ、経忠の子孫という野長瀬氏のみ、鎌倉時代末期になって歴史の表舞台に現われている。

源 義成 飯富忠宗
 平氏政権の下で左衛門尉に任ぜられていた。平氏政権崩壊後は散位が続いたが、後鳥羽天皇の知遇を得て従五位上となり河内守に任ぜられた。承久の乱に参加していないことから、それ以前に死去したものと推測されている。  正しくは「飫富」であるが、飯富と書かれることが多い。『尊卑分脈』には子孫が見えず、中世の飯富氏との関係は不詳である。